2月27日(金):不安ながらに外出して
今日は月末だ。外回りをしなければならない。支払関係のこと、必要品の買い物、その他個人的な用事で出歩くことになっている。いつもなら問題はないのだけれど、今日は外を歩くのに勇気が要った。
先日の交通事故が頭にこびりついているためである。あの場面がどうしても浮かんでしまう。突っ込んでくる自動車の無機質、無感情さが怖い。それでいて「殺意」のようなものが感じられてしまう。
要するに、今日も事故に遭うのではないかという不安が絶えず僕に襲い掛かってくるわけだ。外を歩くのが怖くなっている。あの事故後は、外出する場合、できるだけ交通量の少ない時間帯に外出することにしていたのだが、今日はそういうわけにはいかない。
でも、もしここで、怖いからといって外出を控えたとしたら、僕の経験では、その恐怖が倍増していくことになる。恐怖から逃げることは、一時的な安心は得られるけれど、その恐怖を増長させることにつながる。引きこもりの人たちの経験からも、そのことは真実である。逃げるわけにはいかない。
硬く決意して外を歩く。こういうのは面白いもので、本当は普段の光景、見慣れた日常の光景であるはずなのに、内に不安があると、違った光景に見えてしまう。横断歩道を渡る人たちはなんでああも無防備なんだと思ってしまったりする。何台も自動車とすれ違ったが、その一台一台に注意してしまう。心の状態は世界体験を変えてしまうものだと改めて思う次第である。
さて、最初に銀行を回る。支払関係を済ませておく。これは比較的狭い範囲内での移動だからさしたる問題はなかった。
次に買い物である。これはちょっと距離がある。交通量の多い通りを歩かなければならず、交差点をいくつも通過しなければならない。信号が青になってもすぐには踏み出さず、ワンテンポ置いて歩き始める。そして、一歩踏み出したらそそくさと横切ってしまう。傍から見たらバカみたいに見えるだろうか。そこまで僕を注視する人もいないだろうけれど、そんなことを考えてしまうのも僕の中に不安があるからだろう。不安は人を神経過敏にするものである。そうして意識が自己に集中してしまい、その投影で周囲が自己を注察しているような体験になってしまう。
とは言え、道路を横切る際にはどうしても細心の注意を払ってしまう。
夕方頃になると、その不安は薄れていった。平常の感覚で道路を歩いている自分に気付く。自動車とすれ違ったとしても恐怖に襲われることがなくなっていた。なんとなく大丈夫な気がした。事故の後遺症からは抜け出せそうである。
肝心なことは、不安を知覚することではなく、不安が実現しなかったことを意識化することだ。僕はそう思う。事故に遭遇したらどうしようと不安に襲われるばかりではなく、事故に遭遇しなかった事実を直視しなければならない。少なくとも今日一日は無事故だったのだ。もっと言えば、人生のうち数日を除いてすべて無事故だったのである。いつも無事故な一日を過ごしてきて、今日もいつもと同じように無事故の一日を送っただけなのだ。不安に襲われていた自分が、我ながら、愚かしく見えてきた。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

