3月17日:ミステリバカにクスリなし~『白と黒』

3月17日(火):ミステリバカにクスリなし~『白と黒』 

 

 横溝正史の長編『白と黒』を読む。高校生の頃に一度読んだきりの本で、最近まですっかり忘れていた。先日、実家で本書を見つけて、この本のことだけでなく、もう一度読もうと思っていたことまで思い出した。どうしてもう一度読んでおきたいと思ったかというと、僕の中でまったく印象も記憶も残っていないからである。どんな作品だったかすっかり忘れていたからである。 

 本書はお馴染みの金田一耕助を主人公とする作品である。金田一ものの傑作・名作は昭和20年代に集中していて、僕の読んだ限りでは、昭和32年の『悪魔の手毬歌』以後は質・量ともに落ちていく感じがしている。かつてほどの勢いがなくなっていくのだな。 

 この作品は昭和35年から36年にかけて連載されたものだ。その後、昭和38年に著者が休筆に入るので、戦後期の最後の大長編と言ってもいいかもしれない。 

 どうして昭和30年代に金田一ものが衰退していったかと言うと、それはもはや「戦後」ではなくなったからだ。終戦後なら、モジャモジャ頭にヨレヨレ袴の人は珍しくなかったかもしれないけれど、戦後15年もすればそんな風貌の人は見られなくなる。つまり、時代の流れである。 

 本作も舞台は集合住宅地である。団地内での事件である。人々は都会の生活様式で生きるようになっている。本家と分家の対立もなければ、AとBとの間に生まれたXはAとCとの間に生まれた私生児であるといったような相姦的な関係もない。ちょっと行けば大都会があり、田舎の小村や離れ小島の世界ではない。20年前の未解決事件などもない(3年前の事故は出てくるが)。かつて金田一もので馴染みだった世界観はことごとく失われている。 

 でも、まずは物語を追っていこう。 

 

 一部が建設中の日の出団地に住む須藤順子。旧知の金田一耕助と偶然再会したことから、金田一を団地に連れてくる。この団地では怪文書が横行しており、彼女もそれを受け取ったのだ。そこには彼女の不倫が暴露されていた。これを見て夫は逆上し、ある理由から団地からすぐの商店街に店を構えるタンポポ洋裁店のマダム片桐恒子を犯人とみなしていた。しかし、そのマダムが団地のダスターシュートから死体となって発見される。コールタール漬けのその死体は顔が潰れていたが、服装などからマダムと判断された。事件は昨夜のうちに起きたのだが、順子の夫達雄も行方不明であった。 

 彼女が受け取った怪文書は方々に配られており、それによって自殺を試みた京美をはじめ、被害者であるマダムでさえ受け取っていたという。怪文書を作り、送りつけているのは誰か、それはマダムの殺人事件といかなる関係があるのか、そして被害者は本当に片桐恒子なのであろうか。等々力警部とともに金田一が捜査に乗り出す。 

 

 この後はいささか「ネタバレ」が含まれるかも 

 

 順子の夫達雄はその体格から「ドングリ」と仇名されている。そして団地の脇には池がある。これが「ドングリコロコロ」とかかってくるとは思いもしなかった。そう、「ドングリコロコロドングリコ、お池にはまってさあたいへん」の童謡である。そこに再び怪文書が登場するのだけど、これだけ悪意に満ちた「ドングリコロコロ」は他にないかも。 

 ちなみに、京美の伯父は「ダルマ」と仇名されていたけれど、こちらは何もないのね。 

 

 さて、いわゆる「顔のない死体」トリックというものは、被害者とみなされていた人物が被害者ではなく、その人物は生きていたというパターンが多い。被害者Aは、顔からは判断できないが、服装等からAとみなされるのだが、実はそれはBであり、Aの扮装をしているだけであり、実はAは生きていたというパターンだ。 

 本作はそのパターンを踏襲しない。その裏をかく。被害者は恒子だとみなされていたが、それはそのまま恒子の死体であったのだ。彼女は過去をひた隠しにしなければならない理由があった。そこから顔を潰さなければならなかった事情があったわけで、そういう点ではフェアプレイなのだけれど、どんでん返しを期待していると肩すかしを食らう 

 

 加えて、本作では著者お得意の密室・不可能犯罪は登場しない。もっぱらアリバイにこだわったトリックになっている。そういう点でも物足りなさを覚える。 

 

 しかしながら、優れた点もある。恒子が受け取った怪文書の一節に「白と黒」という言葉があった。金田一は終始この言葉の意味を考え続ける。この言葉の意味するものは最後の方まで伏されているのだけれど、これが事件を解くカギとなっていて、この一句の意味が判明するや事件の全貌が一気に明瞭になる。そこはベテランならではの鮮やかな手際だという気がする。 

 ただし、この「白と黒」であるが、昭和30年代ころにはそのように言っていたのかもしれないけれど、現代ではそのように言う人はいないだろう。だから、その一句の意味はいくら推理しようとしても無理だった。 

 余談ながら、僕の所有している角川文庫版の表紙に関して、本書のこのイラストは手がかりを与えてしまう。改訂した方がよろしい。 

 村の因習もなければ、密室不可能犯罪もなく、もっとも肝心な「白と黒」が表わす暗号も推理できずである。でも、殺人を犯した犯人とは別に死体を偽造する犯人とがいるなんて「犬神家」パターンが出てくる辺りはファンとしては嬉しいところであった。 

 

 さて、本作では従来の金田一ものに見られた世界観がないと言ったけれど、よくよく考えるとそうでもないのかもしれない。団地は、見ようによっては一つの村であり集落でありえる。外部の世界から囲まれたそのエリアは孤島に等しいかもしれない。 

 さらに著者はこんなことも書いている。「団地の各住宅は厚いコンクリートの壁とがんじょうな鉄のドアによって防衛されている。…しかし、一歩中へ入ってしまうと、各部屋を仕切るのは昔ながらのフスマである」と。つまり、団地の各住宅は日本家屋に等しく、それぞれの部屋は日本間と変わらないわけである。 

 そのように考えると、著者の従来の世界観は、姿を変えながらも、息づいている。そうすると、本作はやはり著者らしい作品だということになる。 

 時代はもはや戦後ではなくなっているけれど、例えば一柳夫人などで戦後が触れられている。著者は戦後を描いてきて、本書にも同じように戦後を描いているところがあるのだ。 

 

 こうやって見ると、本作は決して悪い作品ではない。 

 難点を言えば、事件は解決したものの、管理人である根津家族や土地所有者の伊丹が最後はどうなったのかまで描いてほしかった。由紀子を初め、榎本や姫野といった若者たちのその後も気になるところだ。画家の水島のこともどこかウヤムヤになった観がある。 

 どこか物足りなさを感じる上に、どうしても昭和20年代の傑作群と比較してしまい、いささか見劣りがしてしまう。僕の中では3つ星となっているが、傑作との比較や先入見を除外すると4つ星を進呈してもいい。中間を取って、僕の唯我独断的読書評は3つ星半としておこう。 

 

<テキスト> 

『白と黒』(横溝正史) 

角川文庫 

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

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