<#008-41>不安に関する諸問題(2)
母親たちにはそうと見えなくても、子たちは激しい不安に襲われているのであり、私には不安の塊としか思えない子もあります。
母親にそう見えないのは、不安が不安として子には体験されず、また、不安がそのままの形で表現されないからであります。前項では感情鈍麻・隔離、パニック・暴発反応、焦燥感を取り上げました。その続きを綴ります。
(他の感情への置き換え)
不安はしばしば恐怖感に置き換えられます。不安はその対象が漠然としていたり、抽象的であったりしますが、これが特定の対象に結合すると、その不安はその対象に対する恐怖として体験されるようになるわけであります。対象が特定されることによって、対処が容易になるのです。そして、恐怖をもたらす対象を忌避したくなったり、破壊したくなったりすることもあります。
親カウンセリングでは、しばしば父親がそういう役割を担っていることが多いように思います。子の不安は父親に対象化し、父親への恐怖感を生み、その恐怖感から父親を嫌悪するといった例がよく見られるように思うのです。そのような子は、不安に駆られると、父親を罵倒したり攻撃したりといった行為を示すようであります。つまり、不安を払しょくしようとする行為が父親に対して示されるわけです。
こうして不安は恐怖に転じ、恐怖は怒りに転じていくことになります。そして怒りに身を任していると、不安や恐怖の感情に怯えなくて済むことになります。娘A、娘B、息子Eは父親に対して攻撃的になる場面があるのですが、そういう時には上記のような心的機制が働いているのかもしれません。
娘Bは別居しているので母親から見えないものが多く、どのように考えていいのか判然としないことも多々あったのですが、時折見せる母への敵意は不安から派生したものであるかもしれません。
娘Aは恐怖を示すことが多かったように思います。家宅侵入強盗のニュースに接して過剰な防犯体制を取らせようとしたのですが、その背景には恐怖感があるのでしょう。また、娘Aはしばしば人に対する恐れを表明していました。それは妄想的な色彩を帯びることもありました。例えば、昔付き合っていた男性が復讐しようとして近所をうろついていいるといったものであります。これが妄想的というのは、そんな証拠がないということと、現実的に考えても、昼夜を問わず、四六時中近所をうろつくなんてことはできないからであります(そんなことをすれば近所の人が気づくはずであります)。
あまり実例を挙げるのも憚れるのですが、娘Aは恐怖を体験している分、娘Bよりも不安に接していると私は考えています。不安に近い位置に留まることができていると言えるかもしれません。
(強迫的行為)
次に取り上げたいのは、不安が不安として体験される代わりに、強迫的行為で処理されるという例であります。強迫現象に関しては別に記述をしていくので、ここでは簡単に輪郭だけを述べようと思います。
強迫的行為はすべてをコントロールできるという信念に基づくと考えられます。そこには自己の無力感が背景としてあるでしょう。自分を無力と信じている人にとって、いろんなことがコントロールできると確信できることは相当な救いとなるでしょう。すべてを完全にコントロールしようとすると、この行為は強迫的・完全主義的な色彩を帯びることになります。完全主義というのは、何か少しでも不完全なところがあると、そこは自己のコントロールの及ばないところであるように感じられるということであり、そういう部分を排除しなくてはいられなくなるのでしょう。それが完全主義的色彩を帯びさせるように私は思います。
不安との関連で言えば、すでに述べているところと重なるのですが、不安を払しょくするために(不安をコントロールしようとするに等しい)、子は種々の活動ないしは反応を示します。時に、母親を巻き込んで、母に不安処理を求めることもあるわけであり、ここに完全主義的な傾向を帯びると、子にとっては、その不安が完全に消去されなければならないということになります。母親にはそれができると子は信じているようでもあり、耐えられる程度のわずかな不安でも自分に残ることに子は耐えられなくなるのでしょう。
すでに述べたところのものとの関連で言えば、パニックや暴発を鎮める際には完全に鎮めなければならないのであり、「ある程度のところ」というのは無くなるのです。
自分が遅れているとか取り残されているとかいった焦燥感に駆られて、彼らは他の人たちに追い付こうという努力をすることもあるのですが、その努力が強迫的であり、完全主義的であったりします。この場合、追い付くということは、完全に追い付くということを意味しているようです。それなりに追い付いたらいいとか、ほぼほぼ追い付ければいいとか、そういう思考は子には受け入れることができないようであります。
さて、詳しいことは強迫的傾向の欄で取り上げることにして、不安の問題も(述べ足りないところもありますが)ここで一区切りつけたいと思います。
(補足と要約)
不安の問題は特に重要なので、繰り返しておこうと思います。母親からはそのように見えなくても、子は常に不安に襲われており、不安の塊であるように私には見えるのであります。
子たちも不安を経験するのでありますが、不安をそのまま体験できない、つまり不安を抱えることが困難なのだと思います。不安は、感情鈍麻によって、パニック反応によって、他の感情への置き換えによって、強迫的行為によって処理されることになります。
母親たちには子のそれらの行為に潜んでいる不安が見えていないことが多いように私は感じています。子の不安が見えないのは、前景に現れているものが「不安」とかけ離れているように見えるためであろうと私は思います。
息子D(特に記述しませんでしたが娘Cも)は不安感情を切り離すことで処理していたように思います。だから「自己完結的」であると言えそうであります。ただ、二人とも感情の仕返しに襲われることがありましたが。
他の3人は母親を巻き込んで不安を処理していたと見ることができます。その時に示す子の行為に母親たちは困らされていることが多いのであります。母親たちは、自分が困らされ、苦しまされる場面であるがために、その時に子が不安であることが見えなくなるのかもしれません。
いずれにしても、子は不安の処理を母親に委ねるのであります。母親はそれに失敗するのです。母親に子の不安が見えていないためでもあり、子が母親に非現実的な期待を求めるためでもあり、子が完全な安心を求めるからでもあります。
仮に安心を獲得できても、自我内境界が過度に非透過的である場合は、その安心感は蓄積されていかない(個々の安心獲得の体験は個別され、つながらない、身につかない)ということになります。自我内境界が過度に透過的である場合、個々の安心の経験は、その他の不安を喚起させる経験の侵入によって、無化されることになるのかもしれません。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)