<#008-40>不安に関する諸問題(1)
(はじめに)
前節(<#008―36>~<39>)では私が子を理解する際に用いる評価枠に準じて述べてきました。本節では症候学的な観点から述べることにします。膨大な記述量となることが予想されるため、すべてを網羅することはせず、特に取り上げたいと思うものをいくつか選択して記述することにします。最初に「不安」の問題を取り上げることにします。
(不安の塊)
子供を見ていると母親たちは彼らが不安に襲われないことを不思議に思うのです。もっと将来のこととか、自分自身の生活のこととかで不安に襲われることがないのだろうかと母親たちは疑問を抱くのです。母親には子供が不安そうではないように見えるようです。
私の見解はそれとは正反対のものでありまして、子たちは不安でいっぱいであるように私には見えるのです。不安の塊と言っていいほど不安であるように映るのです。
しかし、母親が言っていることもウソではないのです。母親には子が不安であることが見えないのであります。なぜ見えないのかと言いますと、それは不安が不安として子の中で経験されていないからであります。あるいは不安が不安の形で表現されないからであります。いくつか私の見解を述べることにします。
なお、記述の便宜上、個々の諸問題を別個に取り上げていますが、現実の例ではそれらは相互に関連しあい、複合的であるという点を強調しておきたいと思います。
(感情の鈍麻・隔離)
一部の子たちは感情が鈍磨しているようであり、感情を隔離しているような人がいます。例として挙げている5人の子たちの中では息子Dにそれが顕著に見られました。母親Dの言うところでは、息子は無表情であり、能面のような容貌をしているとのことですが、これは感情が表に表れないということなのだと私は思いました。感情が表に表れないのは、息子Dが感情鈍麻に陥っているか、自分の感情を切り離しているかしているのではないか(自我内境界の非透過性)と考えました。
喜怒哀楽など、感情には種々のものがあります。不安という感情体験もその一つであります。感情を切り離す時に、特定の感情だけを切り離すということは困難であると私は考えています。一つを切り離すと、その他の感情も同時に切り離されることになるのであります。そうなると感情全体が低下することになります。そうして感情全体が自我から遮断されることになるので、感情が現れない無表情・無感動の相貌になるのでしょう。
感情鈍麻に陥る前に、しばしば激しい感情体験が認められることもあります。その激しい感情に自我が圧倒されるのでしょう。自我は感情を切り離すことで圧倒されることを防ごうとするのでしょう。つまり、感情鈍麻に陥るのは自我による防衛機制という一面があるように思われるのです。
この息子Dにも一時期激しい状態がありました。母親Dがもっとも息子のことで手を焼いた時期でした。それが徐々に治まっていき、母親Dはそこで安心したのでした。子供が大人しくなってくれたと評価したのであります。母親からすればそのように見えるでしょう。しかし、実際は一段と悪化した可能性が否定できないように私には思われるのです。
息子Dの方も激しい感情に襲われることは減少したかもしれません。しかしながら、感情を隔離するといつか感情の仕返しを蒙ることになるのです。感情が一気に噴出するといったことが生じるのです。息子Dは夜中に喚くことがあるのですが、その時には激しい感情の報復に襲われているのではないかと私は思うのであります。
(パニック・暴発反応)
これがもっともよく見られると私は感じているのですが、不安に対してパニック様の反応、あるいは暴発的な反応を示す例があります。不安は、不安としてではなく、パニックや暴発反応として表出されるわけであります。
時に、子は母親を拘束します。娘Aは母親をつかまえては延々と激しく「説教」をします。息子Eにも同じような傾向が見られました。これは一方ではパニックを鎮めることを母親に期待している行為であるようにも私には思われるのです。自分が激しい不安に襲われると母親を呼び出し、母親を引き留めることをしているわけですが、これは乳幼児期の体験に近く、原始的(人生再早期という意味)な防衛スタイルであると考えられます。その時点にまで心的退行をきたしているとみなすこともできるかもしれません。また、自分の不安を払拭できる能力が母親にはあると信じている(万能な親イメージならびに魔術的な思考)ようにも見受けられるのです。
しかし、母親は子が期待する通りのことはできないのであります。母親には子の不安が見えていないからであります。そうすると子はさらに執拗に母親をつなぎとめることをするようであります。怒りを募らせることもあります。その怒りは、いわば、「母親は本当はそれができるはずなのにやってくれない」という感覚なのだと思います。この時、子には母親が愛情を出し惜しみする母親のように体験されるのかもしれません。自分のために能力を活用してくれず、むしろ愛情を撤退する母親のように見えるのかもしれません。それが憤怒となって噴き出してくるのでしょうが、この憤怒は万能な親イメージ、つまり、愛情を注ぎ、悪い感情を瞬時に払拭してくれる親を取り戻そうとする行為であるように見える例もあります。
(焦燥感)
これはパニック反応・暴発反応と類縁性があるのですが、しばしば焦燥感として不安を表現する子もあります。彼らは「焦る」のであり、さまざまな形で「焦り」を表現します。
息子Eは自分が手遅れであるという主旨のことを母親に訴えるのですが、それは焦燥感の一つの表れであるように思われたのでした。焦燥感は体験されているけれど、彼はそれに対してどうすることもできなかったようであります。焦燥感を処理する、つまり手遅れな自分が他の人に追い付くことを母親に求める(実際には「命令」をする)のです。上述した娘Aように、母親にはそれができると息子Eも信じているようであり、それのできない母親に対して怒りをぶつけるのであります。
焦燥感は、自分が遅れているとか取り残されたといった感情と結びつくことがあるように思います。そして、遅れを取り戻そうと焦る気持ちが生まれるのでしょう。「偽りの自立」に走る子もあります。娘Bの別居には幾分その傾向が感じられました。物理的には母親と別居していますが、いい意味でも悪い意味でも、心的には母親と強く結合しており、母親を必要としているようでありました(娘Bはこのことを否定するでしょうけれど)。
分量の関係で次項へ続きます。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)