<#008-39>子の病理・問題(4)
(自我境界の透過性の程度)
自我境界の透過性について述べています。前項からの続きで、ここから自我内境界の透過性が低い(非透過的)という現象を取り上げます。
ある程度心的に健康な人の場合、自我境界は適度な透過性を保っていることになります。ある体験の記憶と思考とが結びつくこともあります。そこから新しい発想が生まれたりすることもあります。記憶と思考とは区別されているけれど、結びつくことがないほど隔絶されているわけではないと言えます。また、過去経験から学ぶということもあります。過去経験は過去のものとして措定されているけれど、それを現在に活用するということもできます。
もし、自我内境界の透過性が低すぎる場合、内面的なつながりをつけることが困難になるでしょう。一つ一つの心的内容物はそれぞれが独立してしまい、つながることがなく、心的布置を形成することもないでしょう。従って、自己は個々の内容物の集合体であり、全体としての自己が形成されることができなくなると私は考えています。
また、自我内境界の透過性が低いと過去経験から学ぶということがなくなるのであります。学習することもなくなるでしょう。その時その時の体験は独立してしまって、相互性がなくなり、自己の連続性とか一貫性の感覚が損なわれていくであろうと私は考えています。時に離人的な体験をすることも生じ得るでしょう。
娘Bは自我内境界の透過性も低い傾向が顕著でありました。記憶が損なわれているというわけではありません。過去の記憶を彼女は有しています。ただ、一つの体験が他の体験とつながることがなく、過去経験から学ぶことが困難でありました。半同棲している彼氏によると(母親Bはこの彼氏の聞き役にもなっていた)、娘Bには何度も同じことを言わなければならなくなるのでした。現在と過去経験とを紐づけようとしても、彼女にはうまくいかなかったようでした。ちなみに、娘Bは自己の連続性が欠落しているという私の見解を母親Bはこの彼氏に伝えたのですが、彼氏がひどく納得したと私は伺っています。
また、娘Bにおいては、思考や観念も、それが他の何にも関連付けられることがなく独立しているために、発展・進展することもないようでした。娘Bは自分をこうしたのは母親だと信じていました。そして母親に謝罪を強要するのです。私はそれはしない方がいいと考えるのですが、私のカウンセリングを受ける以前のことであり、母親Bはここで謝罪すれば娘の呪詛から解放されると思ったのでした。しかし、そうした謝罪は娘Bに内面化されることがないので、その後、母親Bはことあるごとに娘Bに謝罪をしなければならなくなったのでした。かつての謝罪の経験は、彼女の中で隔絶されている状態であり、現在に結びつかないので、娘はそれを繰り返さなければならなくなっていたのだと思います。もっとも、これには他の要因も絡んでいるかもしれません。つまり、一度謝罪されたとしても、その謝罪が果たして現実にあったことなのかどうかが不明瞭になっている(これも自我内境界の透過性の低さとなるのですが)ので、繰り返しそれを母親に強要して、それが現実にあるということを繰り返し確認せざるを得なくなっていたのかもしれません。母親からすれば(同じように私から見ても)、娘は謝罪前の状態を繰り返し生きているというふうに映るのでした。謝罪しても、謝罪前の状態にリセットされて、母親は再び謝罪をしなければならなくなるわけで、母親Bは一体どれだけ娘に謝罪すれば娘の気が済むのかと嘆いていました。母親Bには酷ですが、娘Bが気が済むということはないでしょう。娘の自我状態が変容しない限り、その謝罪劇は延々と続けられることになるでしょう。
大雑把でありますが、高い透過性の(透過的)自我外境界、低い透過性の(非透過的)自我外境界、高い透過性の(透過的)自我内境界、低い透過性の(非透過的)自我内境界とを一瞥してきました。説明が十分ではなかったかもしれなくて、読む人には意味が分からないところなどもあったかと思います。自我境界という概念を私は非常に大切にしておりますので、いつか別ページでこのテーマを取り上げることにしたいと思います。
娘Aは自我境界の透過性が高い人であり、娘Bはそれとは逆に自我境界の透過性が低い人であると私は理解していました。そこが対照的なので事例の5人に含めたのでした。
自我境界が透過的であっても非透過的であっても、それが過度である場合、どちらも自我化の障害をもたらし、体験が自分のものになっていかない傾向が強まると私は考えています。
また、治療も困難になることが多いように思います。境界の透過性が高い場合、治療場面のあらゆることが心的に多大な影響を及ぼしてしまうでしょう。透過性が低すぎる場合、治療経験が蓄積されていかないといったことが生じるでしょう。
その他の子についても補足しておきましょう。
息子Dは透過性の高い人であったと私はみなしています。外界のあらゆる刺激が心に入り込んでくるので、彼は外界を完全に遮断しなくてはならなかったのでしょう。そして、内面的な混乱(自我内境界の透過性の高さ)も見られ、理由もなくパニックになるということも見られました。また、時折、彼は深夜に浴室で喚くことがあるそうです。内面の何かが外部に漏洩しているのでしょう(自我外境界の透過性の高さ)。
娘Cはすでに一部述べましたが、母親との関係では透過性が高かったように思います。母親の期待や願望は速やかに娘Cに入り込み、それが自分の期待や願望(それらに心が占められる)となっていった節が見られるのであります。
息子Eも透過性の高いエピソードがいくつも見られました。母親との一体感(自他の未分化)、過去経験の現在の感情による脚色などがよく見られたように思います。
引きこもり状態にある人たちは自我境界の透過性の高い人が多いという印象を私は受けています。外界があまりにも刺激に満ち溢れているので、閉じこもらざるを得なくなるのかもしれません。
また、自分が無いとか、自分が分からないといったことを口にする人もあるのですが、それは心の中が混乱しているためでしょう。透過性が高くて混乱していることもあれば、透過性が低くてまとまることがないといったこともあるでしょう。
さて、ここまで子の理解というテーマで、私の評価枠の観点から綴ってきました。お読みになられた方の中には分かりにくいとお感じになられた方もいらっしゃるかと思います。次項からは別の観点、症候学的、病理学的な観点から論じたいと思います。私自身はこういう臨床単位で記述することは気が進まないのですが、こちらの方が分かりやすいところがあるかもしれません。併せて読んでいただけると幸いに思います。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)