<#008-38>子の病理・問題(3)
(自我境界の状態の程度)
自我境界は、自我外境界にしても自我内境界にしても、ある程度の透過性があり、ある程度の堅固さがあり、柔軟であることが望ましいと言えます。その透過性が高すぎたり低すぎたりすることが問題となるわけであります。
前項では自我外境界の透過性が高いという現象を娘Aのエピソードを通じて述べてきました。次に、それとは逆に、自我外境界の透過性が低いという現象を取り上げます。
自我外境界の透過性が低い場合、外界のいかなるものも内面に取り込むことができないという状態が生じます。事物が内面化していかないわけであります。娘Bはこの現象を如実に示していました(注1)。
娘Bが就労に失敗したのは、母親Bの言葉(娘B本人もそう言っているらしい)によれば、記憶力の悪さにあると言います。何度も同じことを教えられて、教えられてもすぐ忘れてしまい、それで業績が振るわず、業務にも支障をきたすようになり、社内で「問題児」のように評価されていたのでした。私の見解では、それは記憶力の問題ではなく、外的事物の内面化の失敗であります。私がそのような見解をするのは、娘Bのその他のエピソードに依るのであります(注2)。
娘Bは母親とは別居中です。彼氏と半同棲の生活をしています。娘Bには収入がないということで母親は経済的な援助をしています。生活費、治療費(娘Bは治療を受けています)、就労活動にかかる費用などを計算して、毎月振り込んでいます。ある時、母親Bは計算間違いをしてしまいました。費用の一部が抜け落ちたのでした。それに気づいた母親はその日のうちに不足分を振り込んだのでしたが、娘Bは激しく落ち込み、母親に呪詛の言葉を投げかけるのでした。このエピソードはどういうことかと言いますと、毎月きちんと仕送りしている母親の姿が内面化されていないということであります。これができていれば、母親は毎月約束を守ってくれているのだから何か手違いがあったのだと思えることでしょう。不足分をすぐに振り込んでくれるだろうと信じて待つこともできたでしょう。
娘Bは自分自身や対象の連続性が失われているところがありました。連続性が失われるのは、自我境界の透過性が低い、境界が堅固すぎるところに起因すると思われたのでした。昨日母親に求めたことを今日も求めるということもありました。
また、自我外境界の透過性が低いということは、外界から学習する能力を奪うものであると考えられます。外界のものが内面に入ってこないということであるから、何度も同じことを繰り返さなければならなくなうのでしょう。そして、それは時間体験の停滞につながると私は考えています。ある一地点から動くことが困難になるからであります。一時点にその人を拘束することになるからであります。娘Bは自身の歴史を構成していくことが困難であるようでした(それはアイデンティティ形成の困難でもあります)。
続いて自我内境界の透過性が高いという現象を考察します。
私たちは思考や観念、感情や記憶など、心の中にさまざまなものを所有しています。記憶を例にとりましょう。私が今とてもしんどい状態にあるとしましょう。そういう時に私は過去の楽しかった経験を思い出すことがあります。あの時は楽しかったななどと思えると、今のしんどい状態が紛れる気がします。この時、今の感情とあの時の楽しかった感情とが私の中で区別されています。今現在の私の体験とその時の私の体験とが混合することはありません。それは両者が混ざり合わないよう境界で区切られていると考えることもできます。もし、この境界の透過性があまりに高ければ、現在の感情で過去経験を脚色してしまうこともあるでしょう。つまり、本当は楽しい経験であったのに、楽しくなかったとか辛かった体験と評価するでしょう。あるいは過去経験の感情が現在に混入してくることになり、上の例で言えば、私は理由もなく、とても幸福とは言えない状況にありながら、幸福感に浸されていたりすることでしょう。
こうした自我内境界の透過性の高さを娘Aはよく示していました。過去経験は現在の感情で上塗りされてしまうのでした。幼い頃、彼女はあるテーマパークに連れて行ってほしいと親に頼みました。親は娘の望みを叶えようと休日に家族でそこへ行ったのでした。幼い娘Aはとても楽しんだと母親Aは述懐します。そして、娘があれだけ喜んでくれたので親たちはとても良かったと言い合ったと述べました。今、彼女はあれは本当は自分は行きたくなかったのだけど、親たちが行きたいと主張したので、自分は強制的に連れていかれたのだと言うのです。楽しそうにしていたのは、両親を喜ばせるためであって、自分は心底から楽しんでいたわけではなく、そう演技していただけなのだと言います。母親Aには娘がそんなことを言うのが理解できないのです。
これを記憶違いと評価するのは正しくないと私は考えています。娘Aにはその記憶があるのです。その体験に対しての感情が変わっているのであります。
彼女はそれを強制されたと訴えていますが、この何かに強制されている感じは彼女が現在において体験していることであるように思われるのです。後に述べますが、彼女には強迫的な傾向がみられました。内面において、彼女は強迫的な観念や行為を強制されているように体験していただろうと思われるのです。その感情に基づいて過去経験を振り返っているようでありました。
現在の感情体験が過去経験に侵入しているとすれば、それは自我内境界の透過性が高いことを表しているわけであります。
このような例は、以前にも取り上げた性的嫌悪の強い娘にも見られました。この娘は父親から性被害を受けたと信じており、子供時代の家族旅行も父親の性目的であったと言い張ります。また、母親がカウンセリングを受けることにも、カウンセラーから性的なことを強要されるからと言って、それを阻止したのでした。彼女の性的嫌悪は、過去経験を塗り替え、外部に投射されていることが考えられるので、自我内境界も自我外境界も高い透過性を有していたと考えられるのです。
自我内境界の透過性が高いということは、上述のような過去と現在の混合をもたらすだけでなく、内面的な混乱をもたらすことにもなります。心の中のものが一つ一つ区画されず、相互浸透していることになるので、内面が混乱し、自分というものが分からなくなったりするのであります。
息子Eは自分が失敗者だと信じているのでした。彼は過去に経験したことすべてが失敗の経験として思い出されるのでありました(自我内境界の透過性の高さ)。母親Eの話ではそんなことはなかったというのですが、息子Eは母親の話を信じませんでした。それどころか、母親のそういう言葉を自己の否定として受け取ったのでした(自我外境界の透過性の高さをも示している)。
また、母親Aが娘Aのことで困惑するのは、その長々と続く話でした。娘Aは母親に最後まで聞くことを強要します。母親Aはそれは受け入れることができるのですが、娘の話が訳が分からなくなることで困っていたのでした。それは一つの記憶と他の記憶が速やかに混合したり、ある観念と別の観念がごっちゃになったり、ある人の体験と別の人との体験とが入れ替わったりするためでありました。これらは自我内境界の透過性の高さをやはり示しているものと考えられるのであります。
(注1)
自我外境界の透過性が低い(非透過的)であるということは、外界との疎通性が阻まれているということでもあります。娘Bの言語表現が伝わりにくいという傾向もそれに関係していると考えることもできます。
(注2)
娘Bにおいては、外界の事物が内面化されない傾向が認められたのでした。これは記憶力が低下していることを意味していないのであります。彼女の記憶力はきわめて正確であるようでした。記憶の問題ではなく、事物が内面化していかないのであります。彼女は規則を覚えることはできます。その規則が内面化されていかないので、いつも同じ形で規則違反をしてしまい、いつも同じ形で規則を教えられることになるわけです。ここに一つの「停滞」を見る思いがするわけであります。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)