<#008-36>子の病理・問題(1)
親カウンセリングの初期において子の病理・問題を理解するという過程があります。その理解にはさまざまな観点があります。私がどのような理解をするか、その尺度として病態水準、退行の程度、人格水準の程度、自我境界の在り方などを私は採択しています。本項では、最初にそれらの概念を述べようと思います。
(病態水準)
母親から子のことを伺う時に、私はその子の病態水準を評価するようにしています。神経症(適応障害)水準、人格障害水準、精神病水準とに分けています。
これらの水準は子の示す現象に対して適用されるものであり、精神病水準の行為が見られたとしてもそれで即座にその人が精神病であるなどと診断されるわけではありません。その点は繰り返し注意しておくことにします。
健康な人であっても、その人の行為や発言を事細かに見ていくと、人格障害水準のものや精神病水準のものが見つかるものであります。実際、寝ている間に見る夢というのは精神病水準の体験であります。心的に健全な人であっても探すと見つかるものであるので、それが見つかったからといってその人を診断することはできないわけであります。
神経症(適応障害)水準というのは、その言動がまだ適応的な効力を保っています。ただ、その適応性が不足していたり、焦点が定まっていなかったり、不安定であったりします。自我はある程度機能しており、防衛機制も働き、場面によっては高度な防衛機制を用いることもあります。
人格障害水準というのは、その言動から適応的価値がかなり失われている状態を示しています。自我機能は低下傾向を示しており、原始的(人生早期の)防衛機制でなんとかやっていける状態であります。それでも現実認識は保たれており、現実的な関係が可能であります。
精神病水準では、自我機能がさらに低下し、防衛機制が破綻しており、外界に対してあまりに無防備といった観を呈する言動を示すものを指しています。時に現実認識が歪曲しており、現実との接触に障壁が生じていることが見られるのです。
これらの水準の違いはカウンセリングならびに子に対する母親に対応などに関して、そのアプローチや方向性の決定に関係するのです。
(心的退行の程度)
心的退行というのは、心的に以前の段階に逆戻りするという現象を指しています。
健康な人は、人生において、前に進めなくなったり行き詰ったりした時に、適度に退行することがあります。その退行はエネルギー回復に資するのです。そして、あまり過剰に退行することはなく、人生再早期の段階まで退行することは少ないと言えるでしょう。加えて、もっとも肝心な点は、退行しても現在の現実に速やかに戻ることができるという点であります。
病的な退行は、それがエネルギー回復に資することがなく、人生再早期の段階にまで退行し、一度退行したらなかなか現在の現実に戻れないといった特徴を挙げることができるでしょう。
病態水準との関係で言えば、退行の程度が大きいほど病理が深くなるという関係性を認めることができるでしょう。
幾人かの子は乳幼児期の段階に退行していることが認められるように思います。乳幼児にとって母親は万能な存在に見えることでしょう。衣食住のすべてをやってくれるのであり、呼んだら(泣いたら)姿を現す人であり、要求を示さなくてもそれを察して施してくれるわけなので、乳児からすれば母親は万能に見えるであろうということであります。
子たちはその万能な親イメージを持ち続けていることがあります。親に「できない」ことなんてないとでも信じているようであります。親が「できない」ということは、こういう段階に退行している子にとっては、親が「やらない」という意味になるのでしょう。「できるのにやってくれない」と信じるので、親に対しての不信感や敵意を高めることになるようであります。
そのような現象は娘A、娘B、息子Eで顕著に見られました。娘Aは母親Aに対して、自分の人生を狂わせたのは母親であり、母親の力で自分の人生を成功に導かなければならないということを要求します。母親がそこまではできないと答えると、娘は非常に激怒するのでありますが、これは娘の内に在る万能な母親イメージが損なわれたためでありましょう。つまり、母親が万能であると思えること、万能な母親イメージを持てることは、その子をして安心をもたらしてくれることでしょう。そのイメージが損なわれるということは子にとってはとてつもない脅威として体験されてしまうのでしょう。その時の娘Ano憤怒はそのように理解されたのでした。
乳幼児期よりもさらに前段階への退行、つまり誕生前の段階に退行することもあります。存在以前の段階であります。これは死への願望として現れることが多いと私は考えています。息子Eは母親の前で死にたいとか殺してくれと言います。母親Eは息子に死なれることは望まないし、当然、自分の手で殺すことなど欲していないのであります。母親が拒否すると、息子Eさらに不満を募らせ、母親ならできるはずだ(この言い分に注目したいと思います)とさらに迫るのでした。では息子Eは本当に死にたいと望んでいるのでしょうか。それはかなり疑問でありました。むしろ、「誕生以前に戻して、もう一度やり直しさせろ」という願望であるように思われました。当然、これは不可能な要求であり、現実的な願望ではありません(精神病水準の欲求であるように私は評価しています)。息子Eに母親にはそういうことができるという信念が本当にあるとすれば、それは万能な親イメージであります。親はそれができるのにそれをしてくれない、という認識は、愛情を撤退する母親イメージを喚起するのでしょう、この「悪い母親」を放逐するために現実の母親を激しく攻撃するよう(これは人格障害水準の行動)であります。
ちなみに、私たちは誰もがそういう段階を通過してきているのです。親が万能に見えていた時代があったのです。成長するにつれて、社会化の過程が始まり、現実認識が発達し、知識も増え、人間関係が広がり、親との関係性が変わってくるうちにその万能イメージは修正されていくのであります。息子Eはそれが修正されていない(そういう人も実際にはおられる)というわけではなく、むしろ、その段階まで心的退行をきたしていると考える方が正確であるように思われました。
また、乳幼児は前言語的段階であります。言葉で表現できず、行為で示す段階であります。言語化の能力が追い付いていないために、後の段階では言語的に表現するところのものを、乳児は行為で表現せざるを得なくなるわけであります。
息子Eが母親に振るう暴力や暴言はその段階への退行に基づくものと私は考えました。
また、娘Aと娘B見られる母親への暴言も、言語的にやっているとは言え、前言語的段階への退行が見られるように思われました。つまり、言語的ではあるけれど、その言語が意味の共有性を失っていると言えるのです。娘Aはそれを言語化しようと努力していたのかもしれませんが、どうしても不全感が残るのか、延々と同じ内容のことを母親に話し、母親Aは昼夜を問わず何時間でもそれに付き合わなければならなかったのでした。
娘Bからすると、自分は言葉で伝えているのに、母親が理解しないというように体験していたようであります。私が伺ったところでは、娘Bの言語様式は主観的色彩が濃厚であり、当人には意味が分かることなのでしょうが、相手には意味が把握しづらいものでありました。言語新作とか支離滅裂さ(これは精神病水準である場合がある)が見られるというのではなく、主体や対象の不鮮明さ、文章における著しい欠落(重要な情報なり説明なりが抜け落ちている)、行為やジェスチャーで示されることの割合が高いなどのためであり、すなわち、その言語使用においては前言語的段階のものをかなり引き継いでいる状態であるという印象を私は受けたのでした。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)