<#008-34>愛情の復活
(病理と問題の理解)
子を理解するという時、子がどういう人であるかという理解に加えて、子の問題並びに病理は何かということに関する理解も親カウンセリングでは必要となります。ただし、これは診断的(病名を付すなど)な理解という意味ではありません。
子はさまざまな形で親を困らせる行動をするのです。その行動の意味を理解したいのでありますが、その際に、幾分、病理学的な知識が求められることもあります。そして、その問題行動の意味を理解することを通して、子の抱えている問題の中核を知りたいと私は思うわけであります。そうすると問題の本質が見えてくるように私には感じられるのであります。
また、問題の中核部分が見えてくると、母親も対応がしやすくなることが多いのです。つまり、子と関わる際に、その中核の部分に触れれば(あるいはそこにさえ触れなければ)十分であり、それ以外のことは受け流しても構わなくなるからであります。
しかしながら、その作業は一方では簡易であり、他方では困難を極めるのであります。中核となる問題は数が限られているという点で簡易であります。問題の表現型が多種多様であっても本質は同じ問題であるということもあるからであります。しかし、それが果たして中核と評価できるのかどうかといった疑問も生まれる上に、中核と呼べる問題が複数あったり複合的であったりする場合もあるので、それを特定することに困難が生まれるのであります。
引きこもり状態にある子の場合、孤独感や孤立感(存在次元を失うといった感情を含む)、異常意識または劣等意識(自分は他の人とは違っているとか劣っているという感情)、欠落感や欠損(自分には何かが決定的に欠けているとか損なわれているといった感情)、などが中核となる例が多いと個人的に私は考えています。加えて、性への不安(親密さや愛情への恐怖なども含む)、外界(他者も含む)への敵意・怨恨などがよく見られると思います。
これらの中核問題は子に脅威をもたらすので、子は自分を防衛することになります。その防衛がその時々でさまざまな形をとるので、子に多彩な問題が現れているように見えることもあります。子の示す言動は、子に脅威をもたらす何かから自分を守ろうとしている行為であるという観点を持つと見えてくるもの、考えられるものがいくつも現れてくるのであります。
(愛情の復活)
前項で子の本来的な姿ということを述べました。こういう質問は親たちにとって一つの契機となることが多いようであります。果たしてこの子の本来的な姿とはどういうものであろうかと改めて考えるきっかけになるのであります。
親たちは子供の幼いころの姿にそれを求めることがあります。あるいは、子の状態がもっとも良かった時代、子と仲の良かった時代の子の姿にそれを求めることがあります。そこには「子がこういう人であったらいいのになあ」といった母親の願望も含まれていることもあります。いずれにしても、親から見てもっともいい姿の子が見えていることだろうと私は思います。
親カウンセリングにおいては、それはそれでいいのであります。親の中で子の本来的な姿が思い描ければ十分であります。次の問題は、今の状態の子にその姿をどれだけ見出すことができるかであります。
母親からすると、問題を抱えている今の子の姿というものは、親の思い描いている本来的な子の姿とはかけ離れているように見えることでしょう。確かにかけ離れていることは私も認めます。ただ、現在の子の中にどれだけ本来的な子の姿を認めることができるでしょうか。わずかな片鱗でも認めることができると親カウンセリングは一歩前進したと言えるのです。
母親Aは娘Aの強迫的なまでの家族奉仕の姿の中に娘の本来的な姿を見たと言います。娘Aには暴言が見られており、そのことが母親Aを苦しめていました。本来、娘は優しい人であったのに、激しい暴言を吐く娘を見るのが辛かったようでした。娘の強迫的な家族奉仕にも母親は困らされていたのですが、それでも優しい人柄の娘の姿が見えるようになたのでした。
母親Bはいくぶん逆の手順を辿ったのでした。母親Bは娘Bの本来的な姿というのは思い描けていませんでした。娘とは疎遠状態になっていて、メールを送ったり電話をかけたりしても激しく拒絶されてしまうのでした。ある時、娘が大事にしていたペットの犬のことで連絡した際に、娘と普通に話ができたと言うのです。その時、こういう朗らかさが娘本来の姿ではないかと思った(思い出した)そうであります。
母親Cは娘Cを大人しい人とみなしていました。しかし、娘との体験を振り返っていくにつれて、娘がいかに自己主張してきたかということにも気づいていったのでした。そして、娘は本来的に積極的で芯の強い人(母親C自身もそういう人でありましたが)だと思うようになったのでした。
母親Dは息子Dを本来的に真面目で几帳面だと述べました。今は部屋にこもりっぱなしの生活を息子はしています。ある時、母親が外出している時に雨が降ってきて、母親は息子に洗濯物を取り入れてほしいと頼んだのでした。母親が帰宅すると、洗濯物が取り入れられていただけでなく、きちんと折りたたまれており、父親のもの、母親のものときれいに分けられていたそうです。この時、母親Dは息子Dの几帳面さを垣間見たのでした。
母親Eは息子Eを明るくて活発な子と思い描いていました。今の息子Eは常に不機嫌で、塞ぎこみ、あらゆることに呪詛の言葉を投げかけるといった姿でした。あの明るくて活発だった子はどこに行ったのだろうと母親Eはよく嘆いたものでありました。時折、息子Eの状態が好調な時は楽しく会話をすることもあり、その時の姿を見ると、やはり息子は明るくて活発なのだと母親Eは再確認するのでした。そして、後には息子Eの荒々しい行動化においてでさえ、かつての子に見られた活発さが感じられるようになったと言います。
親が子の問題にとらわれて、問題ばかりを見てしまうと、子の本来的な姿は見えなくなることだろうと思います。そして、それが見えなくなるほど、母親は子を敬遠したくなるかもしれません。つまり、変わり果てた今の子を見るのが耐えられないという思いに駆られるかもしれません。しかし、わずかでも現在の子の中に子の本来的な姿を見ることができれば、母親の子に対する感情が変わってくるのであります。母親Aや母親Eのように、子の問題行動においてさえその姿を見出すこともできるのであります。
母親の何がそれで変わるのかということですが、子への愛情が復活することがけっこう見られるように私は感じております。私はこれは大事なことであると考えています。というのは、カウンセリングを受ける時点で母親はどうにもできなくなっており、子に対して否定的な感情を強めているからであります。母親は失意にあり、子に失望していることもあります。子を見放したくなったり、治療機関に丸投げしたくなっている母親もあるのです。
ここで取り上げている母親たちにもそういう感情があったのです。母親Aも母親Bも娘を捨てたい気持ちを表明されました。母親Eは息子にさっさと社会に出てほしい(つまり抱えきれないといこと)と何度も訴えていました。
他の母親たちはその感情を表には出さないで、内に秘めているようでありました。そういう感情を持つということ自体が親を苦しめていることもあるようです。子への愛情が復活するということは、母親をしてその苦しみから解放すると言えるのであります。そして、子とのかかわりをやり直そうという気持ちになる母親も少なくないのであります。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)