<#008-33>子の理解(2)
(理解が道を開く)
親カウンセリングの初期の段階ではもっぱら母親たちは子のことを話します。子のことで心が占められていたり、手を焼いていたりと、子のことで何かと苦労しているからでありましょう。
もし、子のことで相談に来たと言いながら、子のことにほとんど触れない親がいるとすれば(実際、そのような親もおられる)、それは別の問題があると言えるでしょう。子に対して関心が低いとか、子供よりも自分自身に重篤な問題を感じているとか、そういう事情があるようであります。ただ、本節の主旨に沿わないところがあるので、そういう親はここでは取り上げていないことにします。機会があれば別にそういう親のことも考察したいと思います。
私のお会いした限りでは、たいていの親は子に関心を向けています。一回だけでカウンセリングを終了した親たちでさえそうであります。ここで取り上げる母親ABCDEもすべて子のことを心配し、子をなんとかしたいという気持ちを有していました。
気持ちが焦るのでしょうか、なんとかしたいという気持ちから、あるいは自分はもうお手上げだという気持ちから、何らかの具体的な「方法」を母親たちは求めることがあります。ただ、私にはそのような方法は持ち合わせていないし、仮に方法があったとしても、子にそれを適用することは難しいでしょう。そういうのを敏感に感じとる子も多いからであります。母親が自分に何かを施そうとしているなどと感じとり(おそらくそれに恐怖を抱く子も多いだろうと思います)、母親を遠ざけたくなるかもしれません。そうして関係が悪化することも良くないし、それは母親の望むものと逆の結果に至ると私は思うからであります。
私は方法など持ち合わせていないのでありますが、子のことが理解できるほど、いろいろ考えていく道が開けていくので、何よりも先に子を理解することが大切であると私は考えています。
(現象学的理解)
さて、理解するといっても、さまざまな理解の仕方があります。カウンセラーの共感的理解というのも理解の一つの仕方であります。
私が重視しているのは現象学的理解と呼べるものであります。子の示す現象をそのまま理解し、その現象そのものに留まるように務めるのであります。そこで理論にあてはめたりすること、原因を探求することなどといった自然的態度(つまりそういうことをするのが人間には自然であるという意味であります)はカッコに括って、判断停止して(エポケー)、あくまでも現象そのものを取り上げる理解であります。そこから必要であれば自然的態度でとりあげていくのであります。
もし、子が「気分が落ち込んでいる」と言っていると母親が語ったとしましょう。そこでこの子を「うつ病的」だと評価したとすれば、それは自然的態度であります。なんらかのカテゴリーに含めて事態を整理するのは人間の思考においては自然であるからです。そういう評価をするのではなく、「子が気分が落ち込んでいると言う」という現象そのものを考えるのであります。つまり、子の言う「気分が落ち込んでいる」とはどういうことなのか、それを言うことで何を伝えたいのか、それを母親に言うとはどういうことか、このタイミングでそれを母親に打ち明けるとはどういう意味であるか、あくまでも「子が気分が落ち込んでいると言う」という現象そのものから離れずに理解しようとするわけであります。
そういう現象的理解の態度と、前項で示したような水準の評価とは矛盾があるように思う人もあるかもしれません。実際には子の水準を評価することと子を(現象学的に)理解することと、その両方を並行して行っていくことになるのです。両者は相補的であるからです。
(子はどういう人か)
本題に戻りましょう。子を理解する必要があるのは分かるけれど、では、一体子の何を理解するのか、そういう疑問が浮かんでくることと思います。
母親たちは子のことをよく見ている例が多く、母親なりに子を理解していることも多いのであります。
私はその子と会ったこともないので、母親に尋ねるのです。「お子さんはどういう人ですか」というように尋ねるのです。
そう質問されて、容姿で答える母親もあります。背が高いとか、太っているとかいった体形であったり、目が大きいとか顔が小さいとかいった容貌を答えるのであります。あまり内面的な部分を言わないのであります。私は確信しているのですが、このように答える親たちは自分自身の内面を把握することにも困難を感じている(また、その困難に気づいていない)と思うのです。
容姿に加えて性格的な描写をする親もあります。大人しいとか活発であるとか、真面目であるとか、そういう性格に関する内容が含まれるのです。私の経験では大部分の親からこの種の返答を受け取っています。
ごく少数ながら、内的な面のみを答える親がいます。容姿に関することが一切なく、性格面、感情面だけを答えるのです。怒りっぽい子ですとか、気分が不安定な子ですとか、そういう表現で埋め尽くされるのであります。母親自身が自己の性格や感情に囚われているほど、こういう答えが返ってくることが多いような気がしています。
中には子がどういう人であるかなんて分からないと答える親もあるかもしれません。でも、そういう親は子のことでカウンセリングを受けに来るということはないでしょう、私はお会いしたことがありません。親カウンセリングにおける親たちは、程度の差はあるとはいえ、それなりに子供のことをよく見ていることが多いのであります。子はどういう人ですかと問われて、躊躇なく、さまざまなことをお答えになられるのであります。
(本来的にどういう子ですか)
子はどういう人ですかと問われて、親は困惑することなく子を描写されるのであります。それはそれでいいのでありますが、「では、お子さんは本来的にはどういう人なのですか」と問われると親たちは途端に困惑されるのであります。
本来の子供の姿なんて考えたこともなかったと母親Aは述べました。加えて、子供の本来の姿を理解した方がいいということですかと母親Aは述べたのです。5人の中では母親Aは洞察力に富んでいたように思います。
その他の母親も分からないといったことを述べるのでした。母親B並びに母親Cは、とても答えられなかったのですが、この問いによって、子を見ているつもりが子の「問題」しか見えていなかったと気づかれました。
母親Dは息子Dとの接点が限りなく少なかったのでしょう、分からないと答え、母親Eは子の本来的な姿なんてとっくに忘れてしまっているといったことを答えたのでした。
私たちは子を単に理解するだけでなく、本来その子はどういう人であったのかということも理解したいのであります。どうしてそれを理解しようとするのか、後に再び取り上げることになるでしょう。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)