<#008―31>親カウンセリングの開始 

 

 母親がカウンセリングを受けるまでにはさまざまな経緯が認められます。その経緯を前節では述べたのでした。 

 では、親はどのようにして自分のカウンセラーを選ぶのでしょうか。親たちはカウンセリングを受ける決心をする以前からいろいろ検索している例が多いようです。子供の示す言動に関して何かと調べていることもあります。あるいは、子への対応とか、自分の子育てについてであるとか、自分自身に関することについて調べている母親もあります。事実、私がお会いするよりもずっと以前からクライアントは私のHPを閲覧してくれているものなのであります。 

 そこには、母親の中で、何か疑問があってそれを調べるという段階から、自分のカウンセラー探しの目的で調べるという段階への移行が認められるのです。母親の心理的変化を認めることもできるのではないかと私は考えています。 

 さて、親たちは自分の選んだカウンセリング機関でカウンセリングを受けることでしょう。私を選ぶ人もあれば選ばない人もあります。それはクライアントの自由であります。注目しておきたいところは、そこですでにある種の傾向あるいは偏向が生まれているという点であります。検索した人のうち、そのカウンセラーがよさそうだと思った人が受けに来るものであります。また、そういう人がそのカウンセラーとのカウンセリングを継続していくものであると私は思います。 

 私が述べることができるのは、私をカウンセラーとして選んだ人に関することに限られています。私を選ばなかった人たちにも同じように言えるのかどうかは定かではありません。私が述べることは一般化できないものであることを私は自覚しており、読む側もそういうものとして、つまり私の個人的見解として読んでいただくことを私は望みます。 

 

(動機と決め手~意識的) 

 親たちは自分のカウンセラーとして私を選んでくれました。何がその決め手となったのでしょうか。あまり明確に述べない人も多いのでありますが、幾人かの母親からは伺うこともできました。 

 一部の親たちは私のHPの記載から納得したり、腑に落ちたり、目からうろこが落ちるような体験をしたと語ります。何か共鳴できるものがあったのでしょう。それが決め手となったということであります。どこに共鳴したかに関しては人さまざまであります。自分が抱えている事柄に関してのものであることが多いようです。つまり、親がカウンセリングを受けるといっても、必ずしも「親カウンセリング」のページ(そこには目を通してくれているかもしれませんが)が決め手になっているとは限らないのであります。従って、親カウンセリングのページ以外の記載で決めたという親がけっこうおられるのです。 

 また、一部の親たちは私が子育てに関することを一切述べていないことで安心感を得たようであります。上述したのは私が述べたことに共鳴したというものでしたが、これは私が述べないことに共鳴しているということになります。私は思うのです、子の問題を母親の育児に還元する理論を全面に打ち出してるようなカウンセラーは、母親からすれば敬遠したくなるだろうと。もし、そういうカウンセラーを選ぶとすれば、その母親には自己懲罰的な傾向が潜んでいるかもしれないと私は考えています。あるいは自分が懲罰を受けることで子供が自動的に良くなるといった非現実的な思考が潜んでいるのかもしれません。 

 あと、家から近いということが決め手となることもあります。自転車で通える範囲であるとか、電車の駅一つくらいの距離であるとか、親カウンセリングではそうしたロケーション的な要素がけっこう重要であると私は感じています。それは、母親自身が子のことで時間を取られていたり、子に煩わされて消耗していたりするからであり、そういう母親は遠方まで通う気力が失われているのでしょう。実際、家から近いことが決め手となった母親たちは子供に手を焼いている例が多いという印象を私は受けています。また、自分のカウンセラーが近所にいるというだけで安心感を覚えるという親もおられました。 

 その他にもあるでしょうが、親カウンセリングの場合、上述のものが多いように思います。これらの決め手(あるいは私をカウンセラーとして選んだ動機)はすべてクライアントである母親に意識されているものであります。 

 

(決め手と動機~無意識的) 

 一方で、意識化されている決め手と並行して、無意識的なものがあると私は考えています。それは意識的ではなく、自然発生的なものであります。 

 例えば、文章だけのこのHPを通して、クライアントは私に関するイメージを形成していることが多いのであります。そのイメージはその人の心的内容の投映によってさまざまな姿となり得ます。 

 従って、実際に私と会ってみると、イメージしていたものとは違うという体験をされる人もおられるのです。思い描いていたのとは違ったということで、私のカウンセリングを、一度だけ受けて、止めるという人もあります。イメージしていたのと違うということが、その人にはとても大きな意味を持っているのだろうと思います。一方で、現実がイメージしていたものと違っていても、それを受け入れることができる人もあり、そういう人は継続するだろうと思います。 

 そうなると私が述べることのできる範囲がさらに限局されることになります。他のカウンセラーではなく私を選んだ母親たちのうち、イメージと適合しているか、現実とイメージとの相違を受け入れることができる母親たちがクライアントとなっていかれることになるからです。そういう母親たちから得た体験に基づいてい記述していくことになります。 

 一方で、私の経験範囲では、母親たちはあまりアグレッシブな動機を有していないと私は思っています。つまり、クライアントの中には、カウンセラーと議論するために、挑戦するために、あるいは打ち負かしたいといった無意識的願望を抱いて受けに来ることがあるのですが、母親たちにはそういう傾向が見られないということであります。むしろそういうアグレッシブな傾向は子の方に見られることが多いと私は感じております。 

 しばしば母親たちは、子に手を焼き、子から苦しめられていることもあるので、依存的になっていることもあります。依存対象としてカウンセラーを必要としていることもよくあります。それはそれで構わないと私は思います。そうした感情は良好な関係、信頼関係の形成に一役買うことが多いからであります。そして、最初は依存対象としてのカウンセラーであったのが、共同作業をしていくカウンセラーへと変化していくことも多いのであります。それは母親の心的変化であり、健全で好ましい方向への変容を示していると私は考えています。 

 

 他にも述べることができるのですが、私たちは話を先に進めたいと思います。母親たちは自分のカウンセラーを選び、現実に予約を取り、面接室まで足を運ぶようになります。こうして親カウンセリングが開始されるのです。 

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

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