<T027-1>戦争学入門:はじめに 

 

 

(老後の楽しみ) 

 僕は年を取って引退したら戦争のことを学びたいと思っていた。実を言うと、もう一つ、魔女裁判のことも学びたいと思ていたが、それはそれで別の機会に述べよう。戦争と魔女裁判とは、人間の暗部の歴史であると僕は考えている。 

 そして、老後や引退が来た時のために、これまでも機会を見つけては文献を買ってきたし、そのうちのいくつかはすでに読んでいる。 

 すでに始めているとは言え、本来、それは僕の老後の楽しみのはずであった。でも、今の僕は悟っている。僕には老後も引退もないのだ、と。このまま一生を続けることになるだろうと思うので、引退はないだろう。それに、自分では長生きはできないと思っている。だから、僕には老後はないだろうと思っている。 

 そういうわけで、老後の楽しみは、あるいは引退後の課題としていたことは、その時まで待たずに、今始めなければならないと思うようになった。今始めないと、それを学ぶことなく生を終えてしまい、人生に悔いを残してしまいそうに思う。 

 そういう次第でこれを始める。「戦争学入門」と名づけよう。 

 

 

(戦争は追体験していくこと) 

 さて、幸か不幸か、僕は戦争を知らない。つまり、武器を持って人と戦った経験などない。戦争がどういうものであるのか知らない。実体験がないからである。知らないから知りたいと思う。 

 しかしながら、あることを知ろうと欲したら、それを実際に体験してみることだ。これほど確実な知はない。戦争を知りたければ、軍隊に入って、戦場を体験することだ。でも、戦争を実体験したいとは僕は思わない。 

 実体験で学ぶことができないから、僕は追体験していくことでそれを知るしかない。 

 文献や映像資料に基づいて、僕はそれを追体験し、戦争が何であってどういうものではないのかを学んでいこうと思う。 

 

 

(人間としての義務) 

 心理学は僕の仕事のために勉強する。ミステリや文学は僕の趣味として読む。どちらも僕にとっては必要だ。職業人として勉強することがあり、趣味人として読む本があるというのは、それ自体、幸せなことだと自分では思っている。 

 でも、戦争は一人の人間として勉強したい。極論だが、戦争を学ぶことは人間であることの義務だとさえ僕は言いたい。決してそれから目を背けてはいけないと思う。 

 

 

(資料について) 

 戦争がどういうものであるか、それを学び、理解したい。古今東西の戦争がその対象となるだろう。 

 基本的に第二次世界大戦のものが中心になうだろうと思う。それは資料が豊富に残されているという事情によるものである。それでも、その他の時代の戦争のことも取り上げることがあると思う。 

 資料は書籍によるものが主になるだろう。書籍はノンフィクションのものになるが、フィクションも取り上げる。その際、その時代を生きた人の手になるもの、戦争を体験した人の著作に限ろうと思う。 

 つまり、そういう人の書いた作品は、たとえフィクションであろうと、戦争の実体験が含まれていると思うからである。そこが戦争体験のない著者の手によるフィクションとは異なるところと僕は思う。 

 著作以外に映像資料も取り上げることになるだろう。この場合も同様で、戦争体験のある製作者の手になる作品であればフィクションでも取り上げるつもりでいる。 

 

 

(戦争と人間の現象学) 

 僕は何を学びたいか。まず、戦争が何であるかということである。それは歴史であり、それ以上に戦争の現象学と呼べるようなものが学べればいいと思っている。 

 そして、何よりも戦争は人間が行うのである。そこにはそれに参加する人間もいれば、それに巻き込まれる人間もいる。どういう人間が戦争をしていくのか、戦争が人間をどういうふうしてしまうのか、そういった人間学的興味も満足させることができればいいかなと思っている。 

 あくまでも僕の知的満足のためにやることだ。これをやることで何か達成したいことがあるわけでもなく、極めたい何かがあるというわけでもない。 

 たいそうな前置きをしているけれど、ふたを開けてみれば、僕のブログでやってるような、雑多な読書評になることだろう。 

 

 

(戦争とは何か) 

 さて、戦争とは何か。現時点で僕は次のように考えている。 

 ①まず、戦争とは人命の蕩尽である。自国の人間であれ敵国の人間であれ、人命の大量消費である。 

 ②人命を蕩尽できるためには、人命軽視(あるいは人間軽視)の思想が色濃くなければならない。 

 ③人命軽視の思想の背景には個人重要性の低下という状況があると思う 

 僕は以後の展開においてこれらの実証を見ようと思っている。 

 ところで、ある国において上記の②③の風潮が強い場合、その国はいつ戦争をしてもおかしくない状態にあると僕は考えている。 

 今の日本はそうだと僕は言いたい。例えばネットでの誹謗中傷やヘイトスピーチなどで誰かを死に追いやることが平気でできてしまう、それに対して罪悪感を抱かないなどというのはそうである。 

 もし、日本がいつ戦争を始めてもおかしくない状態にあるのであれば、僕たちは過去の戦争から戦争というものをもう一度学んでおかなければならないのではないかと思う次第ある。そういう意味でも戦争を学ぶ意義があると僕は思う。 

 

 

(今後の展開) 

 まず、一冊ずつ資料を取り上げていこうと思う。一冊取り上げてから、僕の見解や思うところのものを綴るページが挿入されるかもしれないし、そのまま二冊目に入るかもしれない。それは実際にやってみないと分からない。 

 通常の手続きでは、何か調べたいことや学びたいことがあれば、問題を明確にして、その問題に関する著作を紐解くことになるだろう。上述したことから明かなように、ここではそういう手順を踏まないことになる。問題やテーマを明確にすることなく、一冊ずつ、それも僕の興味の赴くままに、取り上げていって、一冊ずつ考察するという形になるだろうと思う。 

 

 

(注意点) 

 戦争というものは残酷な営みである。僕はそれを綴るつもりでいるが、眼をそむけたくなるような場面、吐き気を催すような描写に遭遇してしまう危険性があるということだけは予め申し上げておこうと思う。要するに、「閲覧注意」ということである。 

 厳しいことを言うことは重々承知しているのだけれど、もし、これを読んで不愉快な気分になられたとしても、それは読む側の責任であることをここに明記しておこうと思う。 

 

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

 

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