<T027-11>戦争学入門:『ホロコーストの子供たち』(6) 

 

 

(第17章) 

 第2章で登場したデボラ・シュワルツの再登場。 

 デボラは生き残りの両親を持つ二世では他の二世たちと同じであるが、第7章のアヴィヴァのように、野心を秘め、それを実現するエネルギーに満ちている。デボラの言葉を抜粋しよう(一部省略あり) 

 「わたし、一度も苦しんでみたいなんて思ったことはないわ。両親とも絆を深めるとか、自分を試すために苦痛を味わってみたいと思ったことは、絶対にない。わたし、苦しむことには飽き飽きしているの。もしわたしが、選ばれて生を受けたとしたら、精一杯意義ある生活を送る努力をするためと、両親が失ったものを取り戻すために選ばれたと思ってたわ。死んだ家族や生き残った両親に対する義務は感じてましたよ、けれど、その義務は過去を変えることにあると思ってた。わたしの人生はわたしだけのものではない、それだからこそ、できる限り、心行くまで生きたいと思ってきたの。死んだ人たちに、無駄に死んだのではないと思っていてほしい、と願ったことはないかしら。わたしはあの人たちの誰も失望させたくなかったの。わたしを誇りに思ってほしかったわ」 

 デボラのこうした言葉に、僕は成熟した自己愛を認める思いがする。 

 高校時代のデボラは成績優秀で、人望もあり、スポーツもこなし、各種の活動にも携わるなど、超人的な活躍を見せる。まだ自分の生きる方向性が見定まっていないという印象も僕は受けるのだけれど、それだけの活動の原点は生き残り両親の子供であるという事実にあると僕は思う。つまり、両親は特別な体験をした、そのことが彼女の原動力だったのではないかという気がするのである。 

 特別な体験をした両親の間に生まれたからこと、自分は選ばれたのだという感覚につながったのかもしれない。その感覚がぞんざいさや自我肥大に至らなかったのは二つの要因があるように思う。 

 一つは両親の善良さである。「善良であることが、おぞましい体験を克服する両親なりの方法で、これは他の生き残りの人々についても同じことが言えると思うわ」とデボラは言う。彼女は両親の善良さを見てきたのであり、高校時代の活動を見ると、その両親に同一化している部分もあるだろうと思う。 

 もう一つは、生き残りの人たちの間には独特な絆があるようにデボラには感じられ、その絆の中で成長したという経験があるだろうと思う。彼女は決して自分が他とは異質で、孤立した存在である、とはみなさなかったのだ。 

 後に彼女は美人コンテストで優勝する。そのために人間離れした努力さえする。でも、コンテストで優勝することが目的ではなく、優勝で得られる恩恵があり、その後の人生を見据えているあたりも素晴らしいと思う。政治に関わりたいと彼女は願っているのだが、その粘り強さと努力でもって、きっとそれを成し遂げるだろうと思う。 

 

 

(第18章) 

 トム・リードの体験談。彼は大学を優等な成績で卒業し、奨学金も貰えて、どこの大学院にも進むことができる身分であったが、この時、自身に関する疑問に襲われている。彼は自分が精神的遺産を背負っていることを自覚する。「精神的遺産を負うということは、ある意味では、痛みを耐え忍ぶことであり、痛みをもろに感じることだと思った。ぼくの頭はひどく混乱していた」と彼は語る。 

 トムの両親は、他の二世たちと異なって、強制収容所を経験していない。その前に亡命したのだ。もっとも、その亡命も困難の連続であったが。それでも、両親だけでなく、両親の祖父母も健在だったことも他の二世たちと異なるところであった。 

 強制収容所の生き残りでなくとも、二世にはなんらかの精神的遺産を負うことになるのだ。トムも自分でも正体のつかめない問題に囚われ、それが恋人との関係にひびを入れることになる。大学を優秀な成績で卒業しても、その世界に留まりたい気持ちはなく、権力や権威に対しては関心がなく、それどころかそれらを嫌悪している節が見られる。卒業後は麻薬厚生施設で働いていたが、順調に昇進していたにも関わらず、29歳で仕事を辞め、子供のための本を描いたりしている。 

 自分が何をしなければならないのか見えず、迷走しているという印象を僕は受ける。彼は著者が生き残り二世の本を書いていることを知って、「共同体」をつくることに望みをかけている。それがその時点においてトムが見出した答えなのであろう。遺産を共に背負っている者どうしのコミュニティを作り、そこに属することで、自分の中にある疑問に取り組めることを望んでいたのだろう。 

 

 

(第19章) 

 「共同体」(コミュニティ)。多くの二世がこの言葉を使った。著者ヘレンは自分たちの間にはそのような共同体は存在しないと信じていたようだ。 

 戦後30年近くを経て、二世たちはいくつものグループを作るようになっていた。コミュニティがうまれつつある。 

 世界もようやくホロコーストと向き合うようになってきた。メディアがそれに関する情報を取り上げるようになったことも、コミュニティ形成に一役買ったようだ。 

 ホロコーストに対する世間の関心も高まっていく。ヒロシマと同様、それは風化させてはならず、忘れ去ってはいけない歴史として認識され始めている。言い換えるなら、戦後30年近くを経て、ようやくタブーであった領域に光が当たり、人々がそれに直面するようになったのだ。 

 著者ヘレンは、臨床心理学者フロレンス・フォルクマン・ピンカスを中心に11人の共同体の一人となった。13章で登場したアル・シンガーマン、18章のトム・リードもそのメンバーである。 

 

 

(終章) 

 ヘレンの父親が心臓麻痺で亡くなる。父親を埋葬した帰り、母親はヘレンに言う。「この30年間は贈り物だったよ。あれから後の年月は素晴らしい贈り物だったんだよ」と。 

 父親の死後、口の堅かった母親が語るようになった。それを語るのは父親の役目だったのに、父親の死後は自分がそれを引き継ぐかのようである。 

 ヘレンの二人の弟たちも、両親がどうやって生き延びたのかを知ろうとする。弟たちもヘレンや他の二世たちと同じような体験をする。まず、両親の体験に驚愕し、それから生き残った両親とその子であるという誇りで満たされる。 

 この弟たちもまた、他の二世たちと同じように、それを直視し、親の体験を乗り越えようと、自分なりに模索していくのだろう。こうして、次世代は親の世代に背負った負の遺産を克服していくのだろう。本書を読み終えると、そういう明るい希望が僕の中にも生まれてくる。 

 

 以上ヘレン・エプスタイン著『ホロコーストの子供たち』を通読したことになる。全体の感想などは分量の関係で次項に引き継ぐことにする。 

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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