<T027-10>戦争学入門~『ホロコーストの子供たち』(5)
(第13章)
この章ではアルバート・シンガーマンという生き残り2世が登場する。アルが他の2世たちと違うのは、彼がベトナム戦争に参加した帰還兵であるということだ。彼は自ら志願して、ベトナムに向かったのだ。「ベトナムに行きさえすれば、ぼくも生き残りの一人になれるってことを、やっと証明してみせられると感じていた」と言う。
親たちがアウシュビッツから生き残ったように、自分も極限状況から生き残る人間であることを証明したかったのだろう。僕から見ると、かなりきわどいやり方だ。こういう方法は、親との完全な同一視を達成しようというふうにも見えるし、考えようによっては、親の体験を乗り越えようという試みにも見える。後者はまだ健全であるが、前者は危険な目論見だと僕は考える。前者を達成した暁には精神病が待ち受けているかもしれない。
両親は自分たちが強制収容所から生き延びたことを「見せびらかした」ようにアルは体験している。そして、自分も何かをやって見せなければならないと感じたという。それでベトナムを選んだのだが、限りなく前者の体験に近いように見えてくる。
実際、帰還後はかなりの「不適応」状態にアルは陥ったようである。人間関係が特に上手く行かなかったようである。彼の救済に一役かったのは、ベトナム帰還兵たちの自助グループの体験であったようだ。
しかし、彼の本心は戦争に対する憎しみであったようだ。両親は自分たちの親族の話をするも、アルは「どうしてみんな死んだんだ」と憤りを掻き立てられ、それに対して自分は何もできないという無力感を体験するだけだった。こういう激しい憎悪が関係しているのか、彼は児童期までの記憶がないと言う。そして、無力感を補償するかのように、彼は体を鍛え、志願兵になっていく。
ベトナムでは、彼はベトコンと戦い、村人を殺してしまう。犠牲者の立場であったはずの彼がいつしか加害者の側に立っている。そのことに矛盾を感じなかったそうであるが、それは彼の心が混乱していたからだろうか、それとも彼の心が分裂していたからだろうか、僕には何とも言えない気がする。アルは自分の体験と第二次世界大戦とを結びつけて考えることはなかったという。
しかしながら、アルにとって著者のインタビューは有意義であった。生まれて初めて人にそれを語る経験だったのだ。「全部まとまりがついてきたように思う」という彼の言葉は事実だろう。断片的だったものが、相互に関連づいて、一つのまとまりを形成したのだろう。心の中にまとまりがつくほど、人は安定するものである。
(第14章)
この章はイェフダ・コヘンという2世が登場する。先の第13章とはセットのような章だ。アルとコヘンは同年代であり、境遇もかなり似ているところもあり、また正反対のところもあるのである。コヘンはアルとは全く違った性格であり、違った体験をしている。本書を読もうという人にはその辺りの相違にも注意を払って読むことを勧めたい。
コヘンはユーモアを交えて話す。それもブラックなユーモアだが。それは父親の影響だろう。父親は戦争体験をユーモアを交えて彼に話していた。もっとも、コヘンがある程度の年齢になってからのことだが。苦しい体験の、父親なりの昇華の道だったのだろう。
大学生になったコヘンは、イスラエルへ行く決心をする。アルがベトナム戦争に参加したのと同じように、そこにはコヘンなりの目的がある。彼は自分がユダヤ人であることの確かな証しを望んでいたのかもしれない。イスラエルは、彼にとって馴染みのある世界であり、その中では彼は異質な存在ではなかったのだ。
コヘンは在学中に再びイスラエルの地を踏むことになる。「六日戦争」が勃発したからだ。コヘンはその時の感情を述懐している。「戦闘には参加したくなかった。しかし、あそこに馳せ参じたいという気持ちは強かった。なぜ、そんな気持ちになるかは、はっきりしていた。二度とあんなことが起こってはならない、と思っていたんだ」。
コヘンのこの動機はアルのものとは正反対である。アルは悲劇を再体験することによって達成するものがあったが、コヘンは悲劇を繰り返さないことで達成することがあったのだと思う。
(第15章)
イェフダ・コヘンがイスラエルの地を踏んだように、著者ヘレンもイスラエルで3年間暮らした経験がある。本章と続く第16章はその時の経験を綴っている。
ヘレンは「(友達や周囲の人と)どういうわけでどこか遊離した感じがつきまとうのか、イスラエルに住んでみればそのわけがわかるようになると確信していた」と述べる(244ページ)。これが彼女がイスラエルに行くことの最初の動機だったことになる。
彼女のイスラエル行きに両親は難色を示した。それでも彼女はイスラエルに行くことを決意する。現地に着き、そこでの生活が始まる。
彼女が所属するボランティアサークルで、ヘレンはトマスという男性と知り合う。トマスの父親は強制収容所の生き残りであった、その後、父親はイスラエルへ向かい、以来、トマスは父親と面することはほとんどなかった。父親は別の女性と結婚し、娘が生まれている。トマスにとっては異母妹にあたる。父親は、娘を見ると故郷に残した息子(トマス)を思い出してしまうのか、娘とはあまり関りを持たなかったようで、トマスの妹はいつも孤独だった。妹に母違いの兄がいるということも長年伏せられていたという。
妹がボーイフレンドと関係を持ったその日、妹を慰めようと努めていたトマスは、妹が求めるままに関係を持ってしまう。そのことは父親と義母には秘密にされた。妹は結婚する。トマスも故郷に戻りたい気持ちがあるが、妹を残すことができず、引き裂かれるような思いを告白する。
著者ヘレンは、トマスと妹の情事は捨てられた子供の心の傷を癒したいという願望の結果なのだと、的確な解釈をくだす。戦争の傷跡は、戦争を知らない子世代にも影響し、子供たちは理解できない謎を抱え続けることになり、そして、家族を分断させることにもなるのだ。
(第16章)
前章に引き続き、著者ヘレンのイスラエルで過ごした3年間の出来事が綴られる。当時六日戦争は終わっていたが、方々でテロ行為がなされていた。著者も避難豪に避難するという経験をしている。
そのような状況で、彼女は『エルサレム・ポスト』という新聞のパートタイム記者をやっていた。ボランティア学生に関する記事を書くために、彼女は学生たちで一杯のバスに乗り込んでいた。そこでマルクという青年と出会う。
マルクはひどい環境で生活していたが、彼が醸し出すメランコリーが魅力的だったとヘレンは語る。それは彼女の母親から発せられるメランコリーと同種のものであったという。しかし、マルクの場合、メランコリーはすべてに侵食している。彼女はマルクのようにはなりたくなかったと述べる。
こうして、故郷への思いが強まっていき、彼女はイスラエルを後にする。彼女はこの3年間でいくつもの貴重な学びや気づきを得ている。288ページ下段から289ページ上段にかけてそれが綴られている。もっとも重要な気づきは、「私が両親とは異なる独自の歴史を持っている」ことであった。この気づきは、両親の問題(強制収容所の体験とそこからの生き残りの体験)とヘレン自身との間に距離を置くことになっただろうと思う。問題と距離を置くことができて(僕の表現で言えば、問題の渦中から出ることによって)、そこで初めて著者はこの問題を直視できるようになったのではないかと思う。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

