<T027-07>戦争学入門~『ホロコーストの子供たち』(2) 

 

 ヘレン・エプスタイン著『ホロコーストの子供たち』の続きを読む。本書は、ホロコースト二世に関する本であるが、同時に優れたカウンセリング・心理療法の本でもある。僕の中では本書はそういう位置づけである。では、前項の続きから、第3章から読んでいこう。 

 

(第3章) 

 この章ではイーライの妹ロシェルの話が綴られている。デボラたちとの面談でイーライが自己の体験を語ったことは、他の面々の心を動かしただけでなく、イーライ自身の何かをも動かしたのだ。彼は妹に連絡を取り、妹にもヘレンに会うように頼む。こうして著者とロシェルの対談が実現する。 

 実際の対談ではもっと多くのことが語られたであろうと思う。活字になるのはその一部だろうと思う。ここではロシェルは自分と両親との関係を中心にして語っている。イーライがより自己の話をしたのとはいささか対照的である感じがする。もっともロシェルはそれ以外の話もしているかもしれないし、両親との関係の話題だけが活字になった可能性もあるわけだが。 

 両親は子供のことになると、その行動は恐怖に彩られるという。両親との関係では真剣勝負なところがあったとロシェルは述懐する。家族を強制的に喪失させられた経験が両親にあるからだろう。 

 母親は戦争時代のエピソードをロシェルに話すこともあったそうだが、いつもハッピーエンドに終わる話にすり替わるのだという。母親がそれを直視できないからであろう。あるいは母親が自分の願望を語っているのかもしれない。しかし、ここには世代間境界」が感じられる母親は自身体験したことをそのまま子に伝えることをしないわけだが、自分の体験と子たちの体験とが同じでないこと、自分たちの時代と子の時代とが違うことなどの自覚があったのかもしれない。 

 子供のことで必死になる両親との関係で、ロシェルは自分が幸せでいなければならなかったという。それは両親の身に起きたことの償いのためであったという。ロシェルはどこかで両親の不幸、受苦を自ら取り入れてしまっているようである。 

 ロシェルが結婚する時、4年間ニューヨークで住むことになっていたのだが、一人娘が親元を離れて暮らすと考えただけで父親が病気になる。結局、彼女はカナダから出ることなく、ただ、より都会の方で暮らすことになった。父親は必死になって娘を引き留めようとしたわけであり、ヒステリー性格の人にはこういう傾向が見られるものである。 

 ちなみにこの父親は、今の妻と結婚してイーライとロシェルが生まれる以前に、別の女性と結婚しており、二人の子供まであったという。最初の妻と二人の子供はナチスによって殺されたという経験をしている。そういう背景を知ると、上述の反応、娘が遠くへ行くというだけで重い病気になるという反応も頷ける。父親にとっては、子が離れて暮らすことは、子を失うことに、子が殺されることに等しい体験となっているのだろう。 

 ロシェルは芸術の道に進む。芸術(絵画)療法士として活躍している。兄のイーライが哲学の道に進んで思索を通して探求していったのに対して、ロシェルは芸術で自己表現していることになる。イーライが言葉を駆使して体験や思想を語るのに対して、ロシェルは絵画で表現する分、言語的な表現が不得手かもしれない。イーライの話には説得力があるけれど、ロシェルの話には率直性が認められる、そういう印象を僕は受ける。 

 

(第4章) 

 イーライとロシェルのルービンスタイン兄妹の話に続いて、ここでヘレンは自身の両親のことを綴る。 

 ヘレンの母親は服飾作りの仕事をしている。裁縫師である。戦前も戦後もそうである。母の姿は、年齢よりも老けて見えて、一人で縫物をしている時は孤独にうちのめされているようにヘレンには映る。身体に痛みを訴え、あらゆる治療を試みており、浴室の薬戸棚には種々の薬品や注射器でいっぱいであるという。 

 これはつまり、母親は心の痛みを体の痛みに転換しているということであり、母親はそれを薬で解消しようとしてきたことを物語っていると僕は思う。 

 ヘレンの父は戦前は水球選手で、スポーツマンであった。スポーツの仕事をしてきたのだが、戦後はその職にも就けず、小さな仕事を渡り歩き、服地センターで裁断工となっている。イライラして帰宅するや、家族が揃うのを待たずに、貪り食う。「食べるために食卓に座ったら食べることに専念すべきて、ほかのことはしちゃいかん」と子供たちに教え、幼いトミー(ヘレンの弟)が行儀悪いと怒鳴り始める。チェコ語で語られるその罵声の合間には「ヘイツェル」とか「シュバイン」といったドイツ語が交わる。 

 父親は収容所経験を通して性格がかなり変わったようだ。スポーツマンであることは変わりはないのだが、些細なことで激昂する。家族であれ、日頃出会う人であれ、何かのきっかけで激怒する。そうでないときは朗らかな人柄であるようだ。エプスタイン家の食卓の場面を見ると、父親は「食べる」ことに関して必死である様子が伺える。命がけで「食う」感じがして、誰よりも先に食べなければならないという逼迫感を僕は感じる。 

 些細なことで父が怒りだし、母親と口論になる。他の家庭でも両親が口論することはあるだろうけれど、「私たちの家の空気にあるような、もうひとつ余計な『何か』などというものは(よその家庭には)存在しないに違いない」とヘレンは述べる。家庭の空気の中にある余計な「何か」があるとヘレンは感じているわけだが、それは言葉で表現するのが困難な「何か」なのだ。 

 

(第5章) 

 この章はヘレンの母親の体験である。収容所から救出されて、ヘレンを産むまでの経験が綴られている。 

 ベルゲン・ベルゼンの強制収容所に収容されていたフランシ(ヘレンの母)は、いとこのキティや他の囚人らとともに、1945年4月15日にイギリス軍によって救出された。フランシは病気に罹患しており、加えて、ひどい衰弱状態だったので、救出されたときに倒れ、病院に搬送された。 

 3週間ほど半昏睡状態に陥ったフランシは病院で目覚める。停戦記念日の5月8日。イギリス兵がカートに品物を積んで病室を回っていた。フランシはタバコと石鹸をもらい、後にカナダ製のパジャマも貰う。タバコの箱の絵、パジャマのラベルにある「カナダ製」の文字を繰り返し眺め、彼女はこれらの品を全財産であるかのように大切にする(こういってよければ、これらの品は彼女の拠り所となっていて、いわば移行対象の機能を果たしていたと僕は考えている)。 

 その後、キティがフランシの居所を探し当て、フランシを退院させる。かつてはドイツ将校の部屋だったというキティの部屋で生活するようになるが、フランシは片時も目を離すことができない状態だった。 

 フランシの健康はその後は回復していったのだが、彼女たちは生まれ故郷のプラハに戻ることを一日伸ばしに伸ばしていた。これは、つまり、過去(戦前)と向き合うことを避けたい気持ちだったのだろうと思う。しかし、あるイギリス兵が漏らした言葉、フランシの腕にある数字の入墨に関して漏らした言葉が契機となって、彼女たちはプラハへ戻る決心をする。 

 生まれ故郷に帰ったフランシだが、そこではかつての知人は余所余所しく、かつての住み家には他人が暮らしており、かつての仕事場は他人が経営し、彼女のかつての所有物は他人の手に渡っていた。そんな現実に直面してしまう。誰もフランシが生還することを予期していなかったのだ。 

 フランシはそこでかつての水泳コーチだったクルト・エプスタインと再開する。彼らは結婚し、フランシは身籠る。出産に対してもフランシは不安であった。収容所を経験したことから、フランシは健康な子が生まれてくるとは信じられなかった。彼女は生活のために裁縫の仕事に就いていたが、出産直前まで仕事をしていた。病院に着くや、すぐに子供が生を受けた。ヘレンの誕生だった。 

 フランシが収容所から解放されて、ヘレンを出産するまでの過程を概観したことになるが、彼女の経験したことは同じように収容所から生還した人たちの経験と大差がないと僕は思う。他の解放者たちも同じような経験をしただろうと思う。飢えや病気の経験、家族の安否が分からないまま過ごすことの不安、周囲との紐帯喪失からもたらされる孤立感、なによりも、身分を証明するものが何もなく、アイデンティティ喪失の危機感などの経験である。収容所も地獄のような苦しみの経験であったが、救出されたからといって、それだけで手放しで喜べることではなかったのだ。 

 

(第6章) 

 この章は特定の個人に関するものではなく、強制収容所から解放された人々の行く末と、彼らを診ることになった精神科医たちの取り組みについて述べられている。そうした歴史に関する章である。 

 収容所から解放されたユダヤ人たちは、住むところもなく、移民となり、各地の難民キャンプに身を置くことが多かった。いくつかの国はそうした人を受け入れる体制を整えていき、かつての強制収容所の囚人たちはそれらの国に散らばっていくことになった。 

 国によっては彼らの支援がなされる。賠償制度も設けられる。そうした賠償を拒絶する人もあれば、それを求める人もある。賠償を求める人は精神科医による診断が必要となる。こうして精神科医たちは「生き残り」の人たちと接することになる。しかし、その医師たちは、一度に大勢のユダヤ人たちを診察しなければならなくなったことに加え、彼らが受けた力動精神医学の知識では「生き残り」の人たちの問題に取り組むことができなかったのだ。当時の精神科医たちにはホロコーストを生き延びた人を支援するために必要な知が欠けていたわけだ。 

 一部の精神科医たちは彼らを研究するようになる。ニーダーランド博士が彼らを「生き残り症候群」としてまとめたのは1968年だった。解放から20年以上経てのことであった。 

 「生き残り症候群」とは、持続的で多様な症状(不安、認識・記憶の障害、慢性的鬱状態、孤独癖、自閉症、自意識の変化、心気症、「生きる屍」的容貌など)を呈することが特徴である。中でも慢性的な不安と鬱がもっとも一般的に見られるとしている。これらは現代のPTSD理論とかなり一致するように思う。「生きる屍」的容貌というのは、感情喪失状態にあること、あるいはトランス状態にあることを表しているように思う。 

 抑鬱症状の背景にある要因は、死者を悼む余裕がなかったこと(喪の作業がなされなかったこと)、生き残ったことに対する罪悪感、情緒の欠乏(感情鈍麻)などが考えられる。 

 また、彼ら生き残りの人たちは人を愛することに対する深い恐怖感があるという。誰かを愛すると、その人を失うことになり、またあの苦痛を体験しなければならなくなると信じてしまうのである。 

 それでも生き残りの人たちの多くは自分の子供を欲しがった(生きがいとか拠り所を求めていたのだろうと思う)。子供が授かっても、子供が10代になると、つまり生き残りの人たちが強制収容所に送られた年齢に子供が近づくと、生き残りの人たちに新しい問題が現れてきたともいう。 

 本章におけるこうした精神科医たちの取り組みを僕は興味深く読んだ。職業柄そうなってしまうのだけど、これらの研究は現代のPTSD理論に引き継がれているように思う。しかし、本章によると、生き残りの人たちに対する関心はその後は薄れていったという。 

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

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