<T027-06>戦争学入門~『ホロコーストの子供たち』(1) 

 

 戦争はその時代に生きた人たちだけでなく、次世代にも深刻な影を落とすことがある。日本で言えば「被爆二世」と呼ばれる人たちなどはそうである。ホロコーストにもそれがある。本書『ホロコーストの子供たち』は、いわば「ホロコースト二世」と呼んでいい人たちの証言である。 

 著者ヘレン・エプスタインもそうであった。両親がナチスの強制収容所の生き残りである。彼らは収容所から生き延び、その後はどこかへ移住し、厳しいながらも仕事をして日々の生活を送り、家庭を持ち、もはや死と隣り合わせの生活からは解放されている。 

 彼らは平和な家庭生活を送っている。しかし、子供たちは自分たちの家庭に違和感を覚えるのである。何気ない生活場面にふと入り込んでくる異分子に気づくのである。他の家庭にはない何かを感じ取って成長しているのである。著者もそうであった。著者が29歳の時、この何かと直面することを決意する。その成果が本書である。 

 僕は本書をとてもいい本だと思っている。貴重な証言に満ちた一冊だと評価している。また、カウンセリング・心理療法の観点からも示唆されるところが多い。カウンセラーを目指すという人は本書を一読することをお勧めしたいほどである。 

 全体は終章を含む20章で構成されている。最初から順に読んでいこう。なお、僕は本書から自分の気に入ったところ、感銘を受けたところのみを取り上げ、僕自身の感想を綴るので、正確な要約にはならないことをお断りしておきます。興味のある方は本書を紐解かれたらよろしいかと思います。 

 

(第1章) 

 この章は本書の序章ともいえるものである。ヘレン(著者)が本書に取り組む経緯が綴られている。 

 ヘレンの心の中にはずっと「鉄の箱」があり、それは開けてはならないものであったが、成長するにつれてそれは無視できないものとなっていった。彼女はそれを明らかにしようと決意するが、それを一緒に覗いてくれる仲間を求めるようになる。 

 カウンセリングを受けるクライアントにもこのような経緯があればいいと僕は思うのである。それに直面しなければならない時期というものが人生には必ずあると僕は思う。彼女の場合、同じような体験をしている仲間を求めるのだけれど、カウンセリングや心理療法においては、この「仲間」はカウンセラーであり臨床家である。 

 両親がホロコーストを生き延びたことをヘレンは「気づいていた」そうである。本文にはそのように記載されているのだけれど、正確に言えば「感じとっていた」という体験ではなかろうかと僕は思う。知的な過程ではなく、肌で感じられるような体験、「感染」に近い体験ではなかったかと思う。 

 

(第2章) 

 ここから「子供たち」が登場する。最初にヘレンの子供時代の友達のことが綴られる。それは彼女の記憶であり、過去の話である。 

 仲間を探し始めたヘレンは、同じように両親が強制収容所から生きて出ることができたというデボラ・シュワルツと連絡を取ることができた。デボラはカナダに住んでいる。当時、カナダはユダヤ人の受け入れ先の一つとなっていて、デボラの両親も収容所から解放されてカナダに逃れたのだ。デボラ自身は美しい人であり、ミス・アメリカ・コンテストで優勝している。デボラは自分がホロコーストの生存者の子であることを公言している。 

 ヘレンはデボラと会うことができたが、デボラの態度からはアンビバレントな感情が読み取れる。ヘレンに積極的に協力したい気持ちとそれに反する気持ちとがせめぎあっているようである。ヘレンに見せる警戒心、ヘレンを打ち解けて歓待するものの自分の本心は見せようとしない態度などにアンビバレントな感情が伺われるのである。その他の人たちをこの場に招待することによって、ヘレンと一対一で向かい合うことをデボラは避けているかのようである。 

 デボラとの対談の場に、まず、二人の男性がやってくる。一人はアーウィン・ダイアモンドといい、ユダヤ教学校の教頭であり、ユダヤ人社会の活動家である。もう一人はアーウィンの親友のイーライ・ルービンスタインである。イーライは哲学を専攻し、教師でもある。この後、さらにデボラの弟のジョセフが加わり、この場は5人となる。 

 最初に自身の体験を語ったのはイーライであり、彼の語りが本章の後半を占めることになるのだが、彼の話はこの場にいる全員の心を動かすことになる。 

 イーライの話は彼の個人的体験であるが、この場に全員に共有されるものもある。彼らは戦争で死んだ家族の誰かの名前をもらっているのである。イーライは名をもらったことで自分の中に何かが生き続けているという気がしているというが、それは両親の抱く何らかの期待であり、希望であるだろうと僕は思う。 

 イーライの両親は彼に高い教育を受けさせた。両親は人間は持ち物を全部失うかもしれないが、頭に貯めこんだことは失われないと繰り返しイーライに語ったという。両親のこの思想は、彼らが全てを失い、全てを奪われた体験をしたことを物語っていると思う。全てを喪失した人の思想であるように僕には思われるのだ。 

 彼は、他の「子供たち」と同じように、神について考えたという。この経験が後に哲学の方面に進ませたのだろう。そして、他の「子供たち」と同じように、彼にも巡礼の経験があった。彼の両親や身内が暮らしたハンガリーの町を訪れたことがあったのである。彼らが実際に生きた場所に立ってみて、名前だけしか知らない幻の人のような存在の人をより身近に体験できるのではないかと思ったそうである。こうした巡礼はより根源的な問いを内に含んでいると僕は思う。自分のルーツであったり、直面できない何かに直面することであったりするが、より「確か」なもの、より「実在」の何かを獲得しようという試み、漠然としたものに明確な輪郭をもたらそうという試みでもあるように思う。 

 イーライは話す。「自分自身の経験を人に話すことは、ある意味ではそれを正当なものにすることでもあるし、自分が正常な人間だと確信することでもある」と。これこそクライアントに体験してほしいことだと僕は思う。ただ、イーライの言葉の後半は少し言葉足らずで、人に話して、人からそれを理解されることによって、自分が正常な人間だと確信できるのだ。僕はそう思う。 

 さらに彼は続ける。「話しているうちに、これまで一度も口にしたことはなかったがずっと前から知っていた事物が、意識の上ではっきり形をとるようになった」と。クライアントの中にはこのような表現をする人も少なくない。自己を語ることは自己の明確化につながるのであって、カウンセラーに情報を提供するために話すのではないのである。 

 

 本章の最初に登場する人たちのことも触れよう。ヘレンの子供時代の友達たちであり、ヘレンと同じような境遇にある人たちのことだ。 

 エヴリンの両親は貪るように新聞を読み、何の変哲もない見出しを巡って何時間にもわたる議論を繰り広げることがあったという。こういう行為は心に煙幕を張るようなもので、なんでもいいからそれに没頭していないと、心の中にある忌まわしい何かが意識に上がってしまうのだと思う。 

 ジミーの家庭には緊張感が漲っていた。それは生きることに対する熱烈さというようなものだったという。この両親も死と隣り合わせという状況を経験したことを物語っているように思う。 

 メアリーの両親は家から出ることがないという。家を留守にすると、火事に遭ったり、泥棒に入られたりするという恐れを抱いていたそうである。自分が不在の間に略奪されたり、親族を殺されたりした経験があるのだろうと僕は思う。 

 

 以上、第1章と第2章を読んできた。分量の関係で続きは次項に引き継ぐことにする。 

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

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