<T027-04>『呪われた医師たち』(3) 

 

 

9「『私は収容所で二度とバラ色の印しを目にしたくない…』」 

 パジャマにバラ色の三角印は男性同性愛者であることを表している。「私は収容所で二度とバラ色の印を目にしたくない」、ヒムラーのこの一声で医師たちは同性愛者の治療に乗り出すことになった。ラーフェンスブリュックに設けられた「矯正スタージュ」、並びにフェルネート医師による薬剤投与で「治療」が施されたが、それで治った同性愛者はいなかったという 

 

 

10「見る目的で…」 

 ポーランド人抑留者は戦前に大手術を受けていた。シュミット隊長は膵臓のない人間など見たことがなく、それを見る目的でこの抑留者を切開した。 

 ノイマン医師は生きている人間から肝臓の一部を切除した。オイゼレ医師はアポモルヒネの効果を見るために手あたり次第に犠牲者をつかまえた。 

 ドイツ製の壊疽血清による被害は、この血清に含まれる石炭酸によるものであった。ディング医師は石炭酸による死がどのように起きるのかを見るために5人の囚人たちに石炭酸を注射し死に至らしめている。 

 その他、毒薬入り弾丸の効果を見るために、食物の人体に与える影響を見るために、寄生虫の威力を見るために、数多くの囚人たちが実験に供された。 

 もっとも残酷なのは二人の親衛隊員ハップとケーラーによるものだ。ポーランドから到着した捕虜の中に14名の修道女がいて、二人は彼女たちを給食室に連れ込み、次々に銃で撃った。二人は身体に負傷してもどれくらい抵抗力があるか、死に至るまでにどれくらい時間がかかるかを見るために彼女たちを撃ったのである。二人はそれに関して意見の一致を見なかったので生きた人間で試したのである。加えて、彼女たちはまだ生体反応が見られているにも関わらず、焼却炉へ運ばれていったのである。要するに、この実験は最後までなされなかったということであるが、二人が興味をなくしたのだろうと僕は思う。それに、抵抗力を見るために、死に至るまでどれくらいかかるかを見るためであれば、一人ずつ負傷させて、死に至るまでの時間を計測しなければならないだろう。そのような手続きは一切取られていないのである。無駄で無益な実験であり、彼らの私的興味による殺戮でしかない。 

 

 

11「毒薬事件」 

 ヒムラーがイギリス軍に捕まった時、彼は口中の毒薬カプセルで自死を遂げた。ヒムラーはナチス機構の首領や責任者は口中に毒薬入りカプセルを携帯するように促していたのだが、自ら有言実行したことになった。 

 当然、この毒薬入りカプセル開発のために収容所の捕虜たちが命を落としているのである。 

 

 

12「枯木」 

 ナチスの殺戮はユダヤ人や敵国人だけでなく、同国人の精神薄弱者、廃疾者、不治の病や遺伝負因を有する者にまで及んだ。劣性遺伝を断ち切るためと、病院のベッドを負傷兵のために空けるためでもあった。彼らには「安楽死」が与えられた。 

 それに引き続いて、囚人たちの断種が行われていく。これに携わったのはヴィクトール・ブラックとカール・クラウベルク教授であった。ブラックはX線による去勢を開発し、クラウベルクはさらに効率的な方法を考案した。収容所内の男性には去勢が、女性には不妊がもたらされることになり、10代半ばの少女でさえ子供が産めない体にされてしまったのである。 

 戦後クラウベルクは自死し、ブラックはニュルンベルク裁判で死刑を宣告され、執行されたという。 

 

 

13「古めかしい戦争」 

 ヒトラーは毒ガス戦のような古めかしい手段を廃止し、より新しい兵器による近代戦を望んでいたが、ヒムラーを初めとする上層部は古めかしい戦争に逆戻りした。彼らは毒ガスの開発を続ける。これを任されたのはヒルツ教授であり、彼は液体ガスを開発する。気体のガスに関してはオットー・ビッケンバッハに委託された。彼らは囚人たちを使って、生きた人間を使ってその開発に取り組んだ。後にビッケンバッハは裁判で死刑を求刑されたが減刑され、懲役20年の刑に服することになる。 

 

 

14「<避雷針>作戦」 

 敵が「細菌戦」を仕掛けてくるとは思えないが、その防御は講じておかなくてはならない。そう考えたヒトラーはこれを「避雷針」と称して、取り組ませた。細菌戦にもっとも熱心だった人物として細菌戦争センター所長のクリーヴェ教授がいた。彼はヒトラーに細菌戦争の必要性を訴え続けた人物である。 

 細菌兵器はジュネーブ協定で禁止されているそうであるが、それを研究し、小規模に実践した国もあるようである。ペストやコレラなど人間に害を与えるものの散布だけでなく、作物に害を与える菌や害虫を散布するなどのこともなされた。 

 

 

15「R・17とインチキ薬」 

 R・17とは、マダウス社のコッホ医師によって開発された火傷薬である。この薬の効用を実験するためにブッヘンヴァルト収容所(入墨収集家の所長夫人のいるところだ)の抑留者たちが選ばれた。抑留者たちは人為的に皮膚を焦がされ、薬品を塗布される。ちなみにこの収容所の46ブロックはこうした実験の場となっていた。 

 もう一つ、蜂窩織炎(ほうかしきえん)の生化学的な治療研究が紹介されている。健康な抑留者に膿を注射して蜂窩織炎にする。そうして、生化学的な治療とその他の治療が彼らに施されたのであるが、生化学的方法はほとんど効果が無く、抑留者はそれで命を落とす。結果は明らかであるのに、同種の実験が繰り返されたという。つまり、生化学的な方法では効果がないということが明らかになり、それに効果がないということが証明されただけでも科学の進歩になるのだが、彼らはそれを認めず、効果のない治療法の実験を効果が現れるまで続けたということである。いかに無益な実験が繰り返されたかを示すものであり、そのために人命が失われていったのである。 

  

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

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