<T026-49>動画広告完成記念コラム(14)
(問13)「再発しませんか?」
僕が頭を悩ます問いの一つだ。会ったこともない人からいきなりこんな質問を投げかけられることも少なくない。僕はこれに応えようがない。と言うのは、会ったこともない人の未来、全然見ず知らずの人に将来起こることなど、僕には分からないからだ。予知能力でも備わってない限り、答えられない質問である。
一応、再発ということに関して、僕の基本的な見解を述べておこう。
どんな傷病でも再発の可能性はあるものである。心の「病」の場合、再発はその人が経験する人生上の危機や生活上の困難などに関連する。以前に受けた「治療」はほとんど関係がない。
再発をどう定義しているかも人によって異なるだろう。一応、同じ「病」に再び罹患することを「再発」と理解できていても、その解釈は人によって異なるだろうと思う。例えば、僕は中学1年生の時に左手首を骨折した。3年ほど前に左ひざを骨折した。骨折した部位は異なるけど、同じ骨折である。これは再発とみなしていいだろうか。ちなみに、僕はこれを再発だと捉えている。
また、どれくらいの間隔があれば「再発」と認められるのかという疑問もある。2年、3年後に同じような状態に陥ったということであれば「再発」とみなしてもいいだろうと思う。しかし、状態が良くなって、1週間後に症状がぶり返して以前のような状態になったというような場合、これは再発ではなく、一連の経緯としてみなした方がいいだろう。
「再発」をどのようなものとして認識されておられるかによって、考えも変えなくてはならないと僕は感じている。
でも、再発の可能性は常にあるけれど、一度でも「治癒」を達成した人は再発をあまり恐れなくなる傾向があるように思う。再発に対してそれほど悲観的には考えなくなるように思う。僕の個人的印象に過ぎないかもしれないけれど、けっこう重要な傾向であると僕は考えている。
次に、同じような問いであっても、それを発する場面によっても違いがある。「再発しませんか」と、「治療」(カウンセリング)を受ける前に尋ねる場合と、継続中に尋ねる場合とでは、意味が異なると思う。
治療中の人が問う場合、その人の何かが良くなっているということも考えられそうに思う。良くなっている部分があるので、再び悪くなったらどうしようという不安も生じるだろうと思うわけだ。
もちろん、それ以外の可能性もある。再発を恐れる感情は、初発症の感情との関連で生まれているかもしれない。その人の今の心的状況ならびに外的状況などが、初発症時のそれらに近いと感じられていて、そのために発症時の記憶が活発になっていたりすると、そのつながりで再発が連想されてしまうのかもしれない。
おそらく「治療」を受ける前なのだろうけど、一部の人たちは再発を気にする。もちろん、その問いかけをした人たちは他所で「治療」を受けている人であるかもしれないが、あまりにも情報が少ないので僕には何とも言えない。
これから「治療」を受けようとする人が「治るだろうか」と心配したり、あるいは、治癒を達成した人が「再発しないだろうか」と不安になったり、そういうのは頷ける。しかし、「治療」を受けていない人(これは不確かではある)が、あるいは治癒を達成していない人(これはかなり確かであると思っている)が、再発の心配をし、保証を求めてくるとは、どういうことだろうか。
再発を恐れているということは、その人は心的には治癒した時点にいることになる。あるいは、発症前の時点に位置しているとも考えられる。そこには「治療」過程が否認されているように僕には思われるのだ。これからの治療過程のことがすっ飛ばされているわけだ。僕にはそんな風に思えてくる。要するに、心的に現在に生きていない人という印象を僕は受けるわけだ。
基本的に、「それがまた起きる」という感情は、未来に属しているのではなく、過去に属していると僕は考えている。
僕も実は再発を恐れている。左ひざの再発だ。また骨折するんじゃないかという心配に襲われることもある。そういう時、僕は骨折した瞬間のこと、ないしは痛かった手術や検査、不自由な入院生活のことなどを思い浮かべているのだ。再発を心配している時、心的にはそれが起きた時点に逆戻りしているように体験している。
さらに、こういう心配に襲われる時には、膝に痛みや不具合を認識しているのである。骨折した時と似たような状況や感情に襲われているのだ。その感情が再発の不安をもたらしているように思う。少なくとも、僕の膝に関する限り、僕はそういう経験をしている。従って、再発を恐れるというのは、心の状態が過去に戻っていることになるわけだ。
さて、再発に関して長々と綴ってしまったけど、この辺りで一区切りつけよう。まだまだ考えられることなんかもあるけど、本題に入ろう。
なぜ、この問題文のような問いが「治らない人」のものであるかということ、「治る人」はなぜ再発のことを言わないのかということについて、僕の見解を綴ろう。
上述したように、再発の恐れは時間の逆行であり、現在に生きなくなっている状態として捉えることができる。「治る人」はより現在に生きるようになるので、再発の発想が生まれないのかもしれない。
あるいは、彼(「治る人」)は、現在が彼に要請してくるものに取り組み始めるので、単に再発のことは意識に上がらないだけなのかもしれない。
仮に、再発の不安をどこかで持っていたとしても、「治る人」にあっては、その自我がよく機能するようになっているので、再発の不安はしっかり抑圧されるようになるのかもしれない。そうして彼の自我は、現在のことのために働くのである。
また、「治癒」を経験していくほど、再発に関しては楽観的になる傾向があるように思う。楽観的と言ったけど、ここで言うのは「いい意味」での楽観性である。心的エネルギーが回復して、自我が機能していくことで自我自体も強化していくと、再発の不安に動揺しなくなるように思う。そして、敢えて表現すれば、再発の不安を楽観的に受け止め、楽観的に考えるのである。つまり、再発することがあっても、「自分は大丈夫だ」とある程度まで思えるようになってくるわけである。「治療」の経験もまたこの自信の裏打ちとなる。つまり、また悪くなっても治療を受けたらなんとかなると思えるわけである。だから、再発の恐れで当人が圧倒されたり、精神的に壊れることが少なくなるわけである。
どんな経験でもそうだと僕は信じているのだけれど、最初の壁を乗り越えるのが一番しんどいことである。最初の「治癒」を経験するまでがたいへんなのだ。でも、一度それを経験すると、二度目の壁に対しては幾分楽観的に構えられるようになるものである。僕の経験ではそうだった。
ところで、「絶対に再発しない治療」を受けるとはどういうことであるか、考えたことはあるでしょうか。(問12)との関連で追記するのだけど、「絶対に治る治療」を受けるとは、どういうことであるか、イメージできるでしょうか。
僕の考えでは、このような「治療」は人生で一度きりのものとなる。従って、そこではいかなる失敗も許されないことになる。そういう完全主義的な「治療」なのである。そして、あたかも「一発勝負」のような「治療」ということになる。ここで上手く行かなければ、もはや自分は救いようがなく、やり直しはきかず、もう後がない、と言わんばかりの状況になるのである。
従って、再発を恐れたり、治る保証を求めたりする人は、自ら「治療」のハードルを高めてしまうことになる。ますます自分を困難な状況に追いやってしまうことになるように僕には思われるのだ。
「再発」するということは、繰り返し「治療」を受ける可能性とかチャンスを与えてくれるものでもあると、僕は思う。言い換えれば、「治療」のやり直しができるということである。また発病しても、「治療」を受けることができると思えれば、安心感も増すものではないだろうか。そういう意味では、「治らない人」は自らを安心させることが困難なのだと僕は思う。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

