<T026-48>動画広告完成記念コラム(13) 

 

(問12)「治りますか?」 

 

 一度もお会いしたこともない人からこんな問いを投げかけられても僕としては答えようがない。だから「分からない」としか言えない。 

 この問いは、僕の考えでは次の三つの意味合いのどれか(もしくは複数個)を含んでいると思う。 

 まず、①「これこれの病気は治るか」という意味がある。これは比較的答えることが容易である。と言うのは、その病気に関するデータを集めればある程度の所までは返答可能である。しかし、質問者はこれを聞きたいのではないと思う。 

 次に、②「私は治りますか」という意味である。これに答えようとすれば予知能力が必要になる。なぜなら、その人の今後がどうなるかを、僕はその人と会う以前から知っていなければならないということになるからである。当然、人間業ではできないことである。 

 最後に、③「あなたは私を治せますか」という意味がある。本音はこれではないかと、僕は密かに考えている。この意味であるとすれば、質問者は僕に、ある意味では、挑発的であり、僕に何かを突きつけ、何かに向き合わせようとしているのである。 

 

 また、この人の言う「治る」の意味が不明である。「治る」ことにはさまざまな「治り」があるものだ。この人がどういうイメージを持たれているのかは不明である。ひどく現実離れしたイメージを抱いているかもしれない。従って、少なくとも、この人の「治る」がどういうことであるのかを知らない限り、僕も考えようがないのである。 

 

 さて、ざっくばらんに言おう。「健康」という概念は一つの理想であり、目標のようなものである。現実に「健康」な人なんて存在しないのである。身体でもそうだ。生きていればどこかが悪くなるものである。持病を持ったりすることもある。過去の病気の後遺症を持つ人だってある。「健康」という観点に立てば、どの人も「不健康」となってしまうだろう 

 精神的、心理的な「病」も同様である。僕たちはみんなそれぞれどこか「病んで」いるものなのだ。それでも僕たちは普通に生きていくことが可能なのである。だから「治る」ことよりも「生きる」ことが優先されなければならないと僕は考えるのだ。その人が「治ら」なくても、生きていけるようになればいいのである。 

 (問1)で述べたことと通じるのだけれど、「治る」と「生きる」は同時に並行して進行する過程であると僕は思う。「治癒」に踏み出すことと生に踏み出すこととは同義である。極論だけれど、「治療」を拒否する人は生を拒否しているのであり、「治療」に躊躇する人は生に対しても尻込みしていたりするものである。僕はそんなふうに感じる。 

 もし、質問者が「治る」保証がなければ動き出せないというのであれば、それはそのまま質問者の人生に対する態度を反映しているだろうと思う。おそらく、このような人たちは「治療」を受ける直前の段階で時間が制止してしまっているのである。いつまでもその段階、その状態に留まり続けてしまうのだ。そうしてその人においては「治癒」の過程も生も停滞したままなのだと僕は思う。 

 

 しかし、不安に思う気持ちも分からないではない。どんな「病気」や「問題」であれ、それを抱えることは様々な不安を喚起するものだと思う。そして、大部分の人はそうした不安を抱えながら一歩を踏み出すものだと僕は信じている。 

 ただ、この不安は過剰になることもある。いろいろな要因がそれに加担してしまうのだけど、その一つは「病」の過剰評価に求めることができるかもしれない。つまり、現実以上に「病」を深刻に、重大に評価してしまうのだ。 

 先述のように、人間は「健康」でなくても生きていけるし、少々の「病気」を抱えていても幸福を追求することだってできるのだ。多くの「病気」は致命的ではないのである。 

 「心の病」は、純粋にそれが命を奪うことはないのである。自殺とか、拒食症の飢餓とか、依存症の薬物過剰摂取であるとか、その個人の生命を奪うのは間接的な要因である。「病気」そのものは命に関わるものではないのである。無謀なことをしない限り、「精神病」でさえ主体の命を奪うことはないのである。 

 心の病は人の命を奪うことはない。そのことだけは押さえておこう。従って、「それは私よりも強い」とか「私はそれが手に負えない」とか、そういう観念が問題なのであり、そういう観念を生み出しているその人の内なる無力感こそが本当の「敵」であると僕は思うのだ。 

 

 これが「治らない人」の言葉に属することは上記から自ずと明らかになってくるかと思う。肝心な点は、保証を求めることをして、動き始めることをしないという点にあるわけだ。確かな保証が得られないと動けないというわけである。「心の病」は、それ自体は生命を脅かすことはないとしても、放置してしまうのが一番良くないことだと僕は思う。そして、取り掛かるのが早ければ早いほどいいと僕は思う。この人たちは、そういう保証をあちこちで求めているうちに、自ら自分を境地に追い込んでしまっているようなものなのだ。 

 僕の経験では、「治る人」はこういう質問をしない、あるいは、しなくなる。その人の自我がしっかりしてきて、少々の不安で圧倒されなくなるからである。あるいは、自我が機能するようになって、不安を抑圧したり、その他の対処を講じるようになるからである。加えて、その人が自分自身と付き合えるようになるからである。 

 自分自身と付き合うとは、自分の中にあるものそれぞれと関りを持つことができるようになるということである。「問題」とも関わり、「病」とも付き合うようになるわけである。彼はそれらを抱えることができていくのである。抱えることができるほど、それらに対してできることも増えるものである。できることが増えることによって、それに対して無力で不安に怯えることも減少していくという印象を僕は受けている。 

 従って、そういう質問をする質問者は、自分自身との関り、自分自身との接点を持っていないと仮定してもあながち間違っていないように僕は思うのである。自分自身との関りを持たないので、自分の中にある「イヤな」ものは、それがあるというだけで不安を喚起し、それは排除されなければならないものになり、自分の感じる無力さと相俟って誰かが除去してくれると期待されるものになっていくのではないかと、僕はそのように思う。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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