<T026-44>動画広告完成記念コラム集(9) 

 

(第8問)「信用できない。信用できるカウンセラーを知りませんか」 

 

 僕はこのテーマに関しては声を大にして言いたいことがある。クライアントが自分のカウンセラーを信用できているということはとても大事なことである。そのカウンセラーの技法とか経歴とかよりも、あなたがその臨床家を信用しているということが、もっとも「治療」効果を発揮するのである。 

 僕は最初のカウンセラーであったN先生のことを思い出す。僕はN先生に多大な信頼を寄せていた。盲信していたといっていいくらいだった。そして、そういう関係性の時は僕自身がとてもいい存在になっているように感じられたし、たいへん安定していた。 

 しかし、ちょっとしたことがあって、僕の中で、N先生への信頼が揺らいでしまうのだ。本当にN先生でよかったのだろうかとか、ひょっとしてN先生を選んだのは間違っていたのではないかとか、あれこれ悩み始めたのである。そうすると、以前よりも僕自身が不安定になってきたのである。その時期がとても辛かった経験が僕にはあるので、僕はこのことをみんなに知ってもらいたいのである。 

 僕の間違いは、僕自身がN先生への信用を放棄してしまったところにあったのだ。当時の僕はそのことに気づいていなかったのだ。つまり、信用とはN先生から与えられるものではなく、僕自身がやっていくことだったということに、当時の僕は気づいていなかったのだ。 

 従って、あなたが自分のカウンセラーを選んだ時にもっとも重要になるのは、そのカウンセラーが信じられる人であるかどうかよりも、あなたが最後までそのカウンセラーさんを信用できるかどうかなのである。 

 カウンセラーが信用できないのではなく、あなたが信用するかどうかなのである。同じように、信用できるカウンセラーがどこかに存在しているのではなく、あなたが選んだカウンセラーをあなたが信用するかどうかである。このテーマ、信頼関係のテーマは、すべてあなたにかかっていると言ってもいいくらいである。 

 カウンセラーを探している人が多いなどとIT関係の業者は言うのだけれど、それは本質が見えてないのである。そういう人の中には、自分の選んだ人を信用するというリスクを回避したがっている人もいるだろう。信用が外から与えられるものだと信じている人もあるだろう。僕は自分の経験上断言できるのだけど、それは違うのである。 

 ある人は身体不自由者のカウンセラーを探している。本当にそういう人がいたのである。身体不自由のカウンセラーでないと信用できないとこの人は思っているのかもしれない。でも、幸運にもそのようなカウンセラーに巡り会えたとしても、いずれ同じ問題に突き当たるだろう。他のカウンセラーさんを信用できないのと同じように、そのカウンセラーを信用し続けることが難しくなる場面がこの人に出てくるだろう。この時、本当はその人が問われているのだ。それでもなお自分の選んだカウンセラーを信頼し続けるか否かが問われているのである。 

 僕はこの問いに気づくことができなかった。問われているのが自分自身であることに気づかず、N先生の問題だと信じ込んでいた。同じ過ちをしてほしいとは僕は思わない。だから厳しいことも言うわけである。 

 極端なことを言えば、そのカウンセラーに信用性があるか否かはどうでもいいのである。クライアントであるあなたはそのカウンセラーを信用することを、ある意味ではあなたに要請されているのである。あなたが主体的に信用するのである。そこをはき違えてはいけないということである。 

 

 ここまで読まれた方の中には、これはすべてクライアント側の話であるかのように思われた方もいらっしゃるでしょう。公平を期するために少し脱線して述べる必要がありそうだ。 

 実は、同じことがカウンセラー側にも要請されているのだ。あなたが選んだカウンセラーを最後まで信じることをあなたが求めらているように、僕は自分が引き受けたクライアントのことを最後まで信じることが求められているのだ。僕はできるだけその要請にできるだけ応じようとは心がける。 

 正直に言うと、最後まで信用し続けることが難しかったクライアントも少なからずおられる。そういう時にはクライアント側でも同じようなことが起きていたりする。相手への信用がぐらつく時には、双方がぐらついているものである。従って、相手を信用するということは、お互いにとって共同作業のような形になっていくものである。 

 

 それはさておき、自分の選んだカウンセラーが信用できなくなった時、それをはっきりと言う人もある。「先生のことが信用できなくなったんです」などと面と向かって言うわけである。これが言えるということは、本当は相当な信用を置いているはずなのであるが、そのことは一旦脇へ置いておこう。 

 その言葉に対して、僕は何も言えない。「今まで通り僕を信用しなさい」と言えないし、それを言ってはいけないのだ。今、それを問われているのはクライアントであって、僕がそれを言うことは、クライアントが越えなければならない試練を僕が肩代わりしたことになってしまうのだ。 

 だから、僕はこういうふうにしか言えない。「あなたは僕を信用するかどうかで葛藤しているのですね。信じるか信じないかはあなたが決めなさい」と。 

 クライアントがここで何を選択するかで、以後の展開は変わってくる。僕がそんなことを言うと、あたかも自分が突き放されたかのように感じてしまう人もあるようだ。そこまで行かなくても、葛藤の解消をしてくれなかったということで不信感の方を高めてしまう人もあるようだ。 

 「治らない人」はここでカウンセラーから去るわけである。そして、次のカウンセラーを探し、次のカウンセラーとの間でも同じことを繰り返したりするのである。 

 ここを乗り越える人は「治る人」になっていく。一度克服した葛藤は、繰り返しそれに襲われることがあっても、以後は乗り越えやすくなるからである。最初の葛藤が一番苦しいものである。 

 

 自分が引き受けたクライアントを信用すること、それは僕に課せられている。自分の選んだカウンセラーを信用すること、それはクライアントに課せられている。 

 同業の人の中には、信用を押し付けるような感じの人もある。私を信用しなさいというオーラをプンプン漂わせたり、自分がいかに信用に値するかということを過剰にアピールしたりするカウンセラーや精神科医である。僕はこんな連中は嫌いだ。 

 「こんな連中は嫌いだ」などと、僕の信用を落とすようなことは言わないようにしよう、前言撤回しよう(と言いつつ、撤回していないが)。信用を落とすようなことは控えなければならないけど、信用を高めるようなことも行き過ぎないようにしようと思う。これが僕のスタンスだ。僕はこういう考え方をして、こういうことをしてますよと、言わば僕の手の内を見せ、その上で、僕を信用するかどうかはあなたの方でお決めくださいというスタイルが僕の性に合っている。 

 クライアント、特に対人問題を抱えているようなクライアントほど「信―不信」の葛藤をどこかで抱くことになると僕は思う。そういう時には苦しい経験をクライアントはしてしまうものである。しかし、その葛藤をこちらが奪ってはいけないし、回避させたり肩代わりしてもいけないことだと僕は自分を戒める。振り返ると、過去において、そういうことをしてきた自分もある。今ではそれが間違いだったと自覚している。 

 

 この信用の問題をクライアントは当初から抱えている。クライアントは自分のカウンセラーを選んでいいのであるが、その最初の段階からそれが問題になっていることも多い。 

 最終的にカウンセラーを選んだ時、そこでは何らかの信用できるものをその人は見いだしていることになる。「治らない人」ほど外的なものに信用の基準を置いているように思う。そのカウンセラーの肩書とか資格、学歴、経歴などの方に注目するようである。「治る人」はそのカウンセラーの思想とか人柄とかの方をより注目するように思う。これは、考えてみれば当然である。他者に対する回避の有無が違うからである。前者は人を信用できないことの象徴的行為であり、後者は人を信用しようとする象徴的行為であるように僕には思えるからである。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

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