<T026-28>筆のすさび(14):自己憐憫(2) 

 

 自分を可哀そうに思ったり哀れに思うことは自己憐憫と呼ばれる。憐憫は愛の入り口になり得る。だから憐憫の感情は愛へと発展していかなければならない。せっかくその入り口に入ったのだからそこまで発展させたいと僕も願うのである。 

 さて、自己憐憫から愛へと発展するとはどういうことであるか、どのようにしてそれが可能になるかという話をしよう。もっとも、僕が上手く記述できるかどうか定かではない。というのは、言葉で説明することがけっこう難しいと感じているのである。 

 

 まず、自分を可哀そうに思い、自分を慰めるといった行為は一体どういうことであろうか。僕は、これは自分に対して「母性」を発揮している状態と解釈している。自己憐憫は自分に対して母性的に関わり始めていると言えると僕は考えている。この母性を伸ばすことが大切になるわけだ。 

 その前に現在ジェンダーフリーが叫ばれているので、母性的-父性的とか女性的-男性的とかいった表記は望ましくないと思う人もいらっしゃるかもしれない。それに代わる適切な言葉が見当たらないので、母性的とか父性的とかいった表現をすることを許していただきたく思う。この母性とか父性というのはあくまでも概念であって、現実のジェンダーとは次元が異なるものであると思ってほしい。 

 さて、自分を可哀そうに思い、自分を慰めたり自分を労わったりしている時、その人は自分自身に対して母性的に関わっているのであり、自分に対して母性を発揮しているのだということを押さえておこう。この人は自己憐憫を通して、自分に慈愛を施しているのである。母親と幼い子供との関係をこの人は内的に展開しているのである。 

 母親が傷ついた子供を慰め、労わり、抱っこしているイメージである。自己憐憫はこれを心の中でやるのである。そこから「育て直し」が始まるといいのだ。「育て直し」ということは、言い換えると、自分自身の立て直しということである。この母性に支えられて立ち直るのである。 

 こうして立ち直った子供は、母親からすれば自慢の子供である。可哀そうだった子供は自慢の子供になるわけである。自己憐憫がこの過程を自分の心の中でやっていくのであるから、立ち直った自分は自慢の自分であるということである。可哀そうな私から、立ち直った頼りがいのある私になっていくのである。自分にとって自分が自慢の自分であり、頼りがいのある自分であるということは、すでに自分を愛しているに等しくなるのである。これは一つの自己愛それも健全な形の自己愛であると僕は考えている。 

 

 さて、僕の考えでは、自己憐憫は自分に対して母性を発揮できている限りにおいて有益である。その時、父性は背後に退いているか、背後から母性を支持しているのが望ましく、父性が前面に出てくると自己叱責に近くなっていくと思う。 

 前項で自己憐憫には制限を設けなければならないと述べたけれど、それは母性が発揮されている間だけ続けられなければならないという意味である。父性が前面に出てくるようになったり、その他のものが混入してくる前に終えなければならないということである。 

 今の話は精神分析的には簡単に説明できるのである。母性も父性も超自我の属性であるとすれば、この超自我が自我に協力している限りにおいて憐憫は望ましいということである。超自我が自我に対立したり敵対するようになると困ったことになるというわけだ。 

 今のは言葉足らずだったな。要するに、超自我が自我と協力してエスを抑制するのが望ましいということである。超自我が自我と対立すると、超自我はエスと手を組むようになるかもしれない。従って、(超自我+自我)>エスの図式は自我を強化するので望ましいということになり、自我<(超自我+エス)は自我を弱化させることになるので困ったことになるということである。 

 例えば、自分を憐れんでいて、「可哀そうに、でも大丈夫、きっと立ち直れるわよ」というのは、幾分父性的要素を含んではいるけれど、エスにあるような攻撃衝動などは見られない。エスが抑制されているのである。しかし、超自我がエスに加担してしまうと、「可愛そうに、もうダメね、死んだ方がいいわ」となる。エスに属する攻撃衝動(ここでは「死んだ方がいい」に現れている)が抑制されず、超自我の加担を受けて、意識に上がっているのである。 

 従って、最初は自己憐憫をしていたのに、長時間続けているうちに絶望的な気分になったりするとすれば、それは(超自我+自我)>エスだった構造が、自我<(超自我+エス)の構造に代わってしまっているのである。このような心内の構造の変化は全然別の文脈で容易に確認できるのである。酔っ払いの愚痴に延々と付き合ってみれば、このことが理解できるのである。実際、僕もそうであった。酔っ払いを観察していくとそういうものが見えてくるのである。 

 では、何が構造の変化をもたらすのか、どこで構造が切り替わるのか、となると答えるのが難しい。外部からは見えないからである。自己憐憫の場合、最初の自己憐憫から連想が広がっていき、さまざまな観念や記憶が浮かんでくるのだろう、それらが構造の変化をもたらすのではないかと僕は思っている。 

 いずれにしても、悪しき自己憐憫に切り替わってしまう以前に憐憫を終えた方が望ましいと言えるのである。正しい自己憐憫を習得した(というのはおかしな表現かもしれないけれど)クライアントの中には、いつの間にか自分を責めていることに気づくこともある。最初は憐れんでいたのに、気が付くと自分を攻め始めていることに気づくのである。だんだんこれにいち早く気づくようになる。それに気づいたらその時点で終了である。そのまま続けていっても好ましい感情が戻ってくるとは限らないからである。 

 

 至らない論述であったように思うけれど、一応僕の見解は綴った。何か言い足りなかったことがあれば後日補足しよう。 

 最後に、自己憐憫を推奨する人としない人との違いを述べておこう。ここまでの記述を踏まえれば簡単に答えることができる。つまり、父性原理が強い生き方をしている人には自己憐憫(が生じたら)を推奨し、母性原理が強い生き方をしてきた人に対しては自己憐憫を抑制するというだけのことである(注1)。 

 父性原理で生きてきた女性が母性原理を活かすようになると、一気に女性らしくなるという印象を僕は受けている。父性原理で生きてきた男性が母性的に自分と関わるようになると、この男性は穏やかになり、強さを内に秘めるようになるという印象を僕は受けている。 

 では、なぜ父性原理で生きてきたような人が母性を発揮できるのかという疑問が生まれるかもしれない。僕はそれはその人がカウンセリングで経験することによるものであるとだけ述べておこう。そこを取り上げるとさらに多くのことを述べなければならなくなる上に、本項のテーマから外れるので別の機会に譲りたいと思う。 

 

 以上、自己憐憫について述べてきた。それが自分を愛するということの端緒となり得るので、憐憫を愛まで発展させたいと思う。そのためには正しい憐憫をしなければならないということを述べてきた。そこで行われることは、心の中で展開する母子関係であり、立ち直りのプロセスである。このプロセスにおいて、もしくはこのプロセスの終着点において、自分に対しての愛が生まれていると僕は考える。 

 

注1 

 ここは言葉足らずであった。例えば憐憫一定時間続けて余計な感情や観念混入してきたら、それを打ち切るという作業は父性原理の活用が求められる。今続けている行為を止めるという行為は父性原理によるものである。父性原理が強い人であれば、それができるであろうと考えられるから、憐憫を勧めることができるわけである。 

 母性原理の強い人である場合、憐憫を始めたら終えることができなくなる可能性が高い考えられ、そうなると憐憫の活動は愛へと発展する確立が低下するだろうと考えられるので、憐憫は勧めないというわけである。そういう人は憐憫に陥る前にしなければならないことがあるのである。 

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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