<T026-23>筆のすさび(9):暗示と感化 

 

 カウンセリングとか心理療法で一番大事なものは何かと問われたら、僕はそれは暗示であると答えるだろう。暗示というのは、また、言い換えると感化とか影響ということである。 

 暗示と呼ばれる現象は僕たちの日常生活で意外と幅を利かせているのである。僕たちの言動の大部分は暗示に基づいていると言ってもいいくらいである。 

 暗示は、他者からもたらされる場合もあれば自分に付与することもある。また、変容することもある。つまり、他者からの暗示だったものが自己暗示になることもあり、その逆の場合もあり得るということである。 

 暗示は意図的になされるものもあれば、非意図的になされるものもある。また、暗示であることに気づいていることもあれば気づいていないこともある。 

 暗示のすべてではないとしても、暗示の多くの部分を占めているのはその人の信念である。信念が暗示の根底にあることが結構多いのではないかと僕は思う次第である。認知療法や論理療法で思考様式を変える試みは、今までとは違った自己暗示をかけるという方針とかなり近いものになると僕は思う。信念とか思考を変えるとは、新しい信念・思考を自己暗示しなさいという方向の治療法になると思う。 

 それが悪いというわけではない。大半の心理療法は暗示の力が大であると思うからである。そして、暗示の力が効果的であるならそれは活用した方が望ましいものである。 

 

 さて、暗示そのもののことは詳述しないでおこう。カウンセリングにおいて、暗示がどういうところで役に立っているかとか、そうした内容に入っていこう。 

 僕が一番に言いたいのが次のことである。予約制にした方が来談率が高くなるであろうということである。なぜ前もって予約を取らなければならないかということには他にも理由があるのだけれど、予約を取るということは、その日時にカウンセラーを訪れるという暗示がクライアントに生まれるからである。予約を取った時点でクライアントの中で来談の営みが始まっているのである。 

 従って、次にいつ来れるか分からないので予定が決まり次第次回の予約を取りますという人と、予定が入ってキャンセルしてしまうかもしれないけれど一応次回の予約を取りますという人とでは全然違うのである。後者の方が次回の来談の可能性が高いのである。後者はすでに次回の暗示を自分にかけていることになるからである。むしろ、前者の方は次回は来れないということを自分に暗示をかけていることになるのである。 

 

 自分はダメだと思う人も、自分はできると思う人も、どちらもそのように自分に暗示をかけているに等しい。それも事あるごとに繰り返しその暗示を自分にかけているのである。その暗示が自己信念になり、自己像に凝集していくのではないだろうか。 

 では、暗示だけで上手くいくのかというと、そうでもない。実は、暗示をかける前に、その暗示が有効になる状態になっていかなければならない。暗示の前段階があるのである。カウンセリングでやっていることも、その前段階の部分である。 

 ある人が自分に「自分はできる」という暗示をかけるとしよう。しかし、その人がその暗示を必要としているということは、「自分はできない」という信念を有しているからであるということになる。すると、「自分はできる」という信念を自分に暗示にかけるたびに、この人は「自分はできない」という信念の方も強化していることになる。 

 つまり、暗示をかけようとする信念に対抗する信念が根本にあるわけであり、一方を強化しようとすると他方も強化されてしまうことになるという関係性があるということである。従って、「自分はできる」という暗示をかける以前に、「自分はできない」という信念が多少ともグラついていないといけないわけである。そこをそのままにしておいて対抗的な暗示をかけても無駄であると僕は思うのである。 

 では、「自分はできない」という信念、自己像はどこにその根拠があるのか。暗示をかける以前にその人にあるその信念・自己像は何に基づくのか。それはその人の「目」にあると僕は思うのである。つまり、その人が自分自身をどう見ているのか、その「目」が問題となるわけである。 

 簡潔に言えば、その「目」が新たにならなければならないということである。新しい目で自分を見ることができて、初めて暗示も功を奏するというように僕には思われるのだ。つまり、そのようになると「できる・できない」の次元を超越した暗示を自分に与えるようになるだろうと思うのである。 

 

 あれこれ筆のすさびで書いているうちに自己暗示の話になってしまったようだ。僕たちは日常生活の至るところで自分に暗示をかけているのである。自分に対してかける言葉はすべて暗示として作用するのである。朝起きて、「今日も頑張ろう」と自分に言うこともあれば、「今日はしんどいな」と自分に言うこともある。それらがその後の活動に思いのほか作用していることに気づくこともある。些細な場面で人は自分に暗示をかけ、その暗示にいつの間にか感化されていたりするのである。 

 授業中に眠気に襲われるとしよう。こういう経験は誰もがあると思う。そこで「眠いなあ」などと思ったとしよう。それがすでに暗示として作用するのだ。睡魔に襲われても、「あと10分か」と思えると、それもまた暗示として作用することになる。どのように思うか後の行動が変わってくることになる。 

 

 近年、こうした暗示や感化の現象はネット世界を通して与えられることも多い。インスタグラムなどで誰かが画像をアップする。それが閲覧者に作用を及ぼすのだ。閲覧者の行動を規定したり促進したりするのである。なんとも怖い世の中になったものだと僕などは思うのである。 

 どのような刺激であれ、情報であれ、すべて暗示として作用し得るのである。情報が過多であるとは、無数の暗示に僕たちは取り巻かれているということになると僕は思うのである。至る所で暗示が与えられるのである。僕たちはそれに無条件にさらされ、なんらかの感化をされることになる。自分がしっかりしていない人ほど、容易に感化されるのではないかと僕は思うのであるが、そういう人よりも、こういう世界の方が危険なのだ。 

 

 僕がこうして書いている。こういうものも暗示として誰かに作用しているかもしれない。ただ、幸いなことに、僕の書くものはあまり人に感化することが少ないようである。と言うのは真面目に読む人が少ないからである閲覧者少ない僕は一方で安心するのである。 

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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