<T026-21>筆のすさび(7):過去への囚われ 

 

 クライアントは主に過去のことを話される。それはそれでいいのであるが、過去に囚われているような人もある。こういう人は過去の、それも遠い過去の話だけを延々となされる。カウンセリングの時間はクライアントが自由に使ってもいい時間なので、そうしたければそうしてよいのであるが、治療的観点から言えば、これは望ましいことではない。 

 

 まず、どうして人は過去に囚われるのかを話そう。そう思うのだけれど、これはけっこう込み入った話をしなければならなくなる。そこで簡潔に要点だけ述べておこうと思う。 

 最初に起きるのは、その人の現在における弱化である。現在において行き詰っているので過去に目が向いてしまうのだ。それと同時に、その人の自我が弱まっていたり圧倒されていたりするのである。そのため精神的エネルギーが低下し、自己の統制が弱まっているのである。 

 例えば、僕たちが過去経験を参照し、過去から学び、それを現在に持ち込むことで現在を変え、そして未来につなげていくという作業をするとしよう。こういう一連の過程は相当な心的緊張力を要するのである。あまり意識されていないかもしれないけれど、それには心的エネルギーを多量に用いるのである。過去に囚われているという人はこのようなことができなくなっていることが多いと僕は信じている。その作業に必要な心的エネルギー枯渇していたり、緊張力持続しなかったりするためである。従って、そのような人は過去経験を生かすという道が閉ざされているのである。彼はただ過去を語るだけとなるわけだ。 

 現在の彼が弱化しているので、彼は現在に生きることが難しくなる。というのは、過去や未来が容易に現在に混入してくるからである。言い換えれば、過去、現在、未来という時間軸が混乱しているのである。過去を過去に位置づけたり、未来と現在とをつないだりということができない、つまり自我が過去経験現在の経験区別できず、従って統制が取れなくなっているのである。 

 例えば、僕たちは現在の心的状態に応じて想起される過去経験が決定されることが多いのであるが、彼らはこれを頻繁にやってしまう。というのは、現在と過去の境界が不鮮明なので、現在の状況と過去経験とが直結してしまうのである。さらに、現在の心的状態によって過去経験を解釈してしまうことも増え、従って、想起される過去経験は現在の何かで影響されているのである。だから、過去経験はしばしば歪曲されてしまう。 

 現在その人がたいへん不幸な状況にあるとしよう。この人はその心的感情に応じて不幸な過去経験を想起しやすくなっているのである。加えて、本当は不幸でもなかった過去経験をも不幸な体験として解釈してしまうということである。本人はそれを意図してやっているわけではない。歪曲に半ば気づいている場合もあるが、当人にはリアルにそれが想起されていることもある。 

 未来に関しては、本当は未来のことは誰にも分からないのであるが、過去に囚われているような人は、過去に経験したことが未来に生じる、またはそのまま持続すると信じ込んでいることも多い。現在の心的感情で未来を思い描くので、その未来像はその感情の色彩が濃厚なものとなる。現在不幸な状態にある人は、どうしてもその感情で将来を考えるので、不幸な将来しかイメージできなくなるわけだ。そして、同じように、この感情的色彩の濃厚なイメージはリアルなものとして当人には体験されているのである。 

 現在はと言うと、過去と未来が一方的に侵入してきて、いわば両者のせめぎ合いの場になっていたりする。過去は現在であり、未来も現在であり、そして現在はどこにもないのである。現在性の喪失が根本にあることになる 

 

 さて、過去に囚われている人は過去の話を延々となされる。初対面でいきなり幼児期のことを話される(実はこれはおかしなことなのである)。そして、成育歴を長々と話すのが常である。 

 僕はどうするか。最初からその話を打ち切ることもある。あるいはある程度まで聞いて、適当なところで打ち切ることにする。今、「適当なところで」と言葉を濁したけれど、本当は僕がイライラし始めた時点である。これはけっこう重要なことだ。クライアントの話を聞いていてこちらがイライラし始める時(これは逆転移感情ということなのだけれど)、何かクライアントの「悪いもの」が噴き出し始めているのだ。僕が聞いていることで、その人の悪いものを引き出してしまっているのだ。その可能性が高いと僕は思っているのだけれど、そういう意味もあってその話を打ち切るのである。別にその人に意地悪しているわけではないのだ。 

 打ち切る時の方法はいくつかある。「少し今の話をまとめさせてください」などと介入して話を止めさせることもある。精神的に病んでいる人ほどこういう介入に傷つくものである。特に現在に視点を移す時、つまり「今、ここ」に焦点を当てると彼らは傷つくことが多いように思う。その反応でその人の病態水準が測れると僕は思っている。 

 「今、ここ」に焦点を当てるというのは、例えば、「それを話されて、今どんな気分ですか」と尋ねるとか、「それで私にどういうことを求めているのでしょうか」などと尋ねるということである。 

 彼らが傷つくのは、彼らが人の言葉に敏感になっているからという理由だけではなく、現在の自分の空虚さとか、現在の自分が無いことに彼らが直面してしまうためもあるだろうと思っている。従って、「今、ここ」に関して質問されるというのは、彼らにとっては、とても答えられない質問を投げかけられたに等しい体験になるのだと思う。そこで彼らは困惑し、困惑させるようなことをしたカウンセラーに否定的な感情を抱くこともある。彼らはそこで悪い体験をしたと思うかもしれないけれど、実は治療的には意義があるのだ。 

 

 それに、彼らが過去経験を話す時、大部分が彼自身のことではないのである。つまり、他の人のことを話すのである。大抵は親のことである。彼らは熱心に親の話をするのである。しかし、こちらとしては、彼らの親のことは理解できても、彼ら自身のことが理解できているわけではないのだ。極端な話(でもないか、実際にあったことだ)をすると、何時間も面接を重ねてきたのに、一向にそのクライアントがどういう人であるか分からないということも生じる。彼の親のことに関してはかなり詳しくなったけれど、彼自身のことについてはほとんど分からないということもあったのである。これはクライアントにとっても損失であると僕は思う。そういう損失を生み出さないようにすることは一つの倫理だと僕は思っている。彼らからすると不満であるかもしれないが、僕はクライアントの個人的満足よりも倫理の方を優先したいと思っている。 

 彼らのそういう過去経験の話が損失になるというのは、そこに彼自身のことが語られていないからである。加えて、彼らもまた何を求めてそういう話を延々としているのかが分かっていないからである。つまり、感情に任せて話しているだけということが結構あるのだ。だから、その感情が治まるまで延々とその話が続くことになるのだけれど、その話を延々とすることがその感情が治まるのに有効であるかというと、僕には疑問である。もし、それが有効であるなら、彼らは親を相手にそれをしていることが多いので、そこでとっくに治まっているはずである。彼らのその行為は、彼らが求めている結末に彼らを導かないのである。これもまた現在の彼が失われているからである。 

 

 まだまだ述べたいところもあるけれど、長くなるのでこの辺りで筆を置こう。また機会があればこういう話を続けたいと思う。 

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

 

 

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