<T026-20>筆のすさび(6):思考
初回面接で僕はクライアントに僕がどういう人間に映っているかを尋ねることにしている。いろんな答えが返ってくる。優しそうとか、大人しそうとか、穏やかな感じとか、丁寧な人だとか、さまざまである。当然、僕のことを怖いと思う人もある。その人にはそう見えているのだから僕としてはどうしようもない。
それはともかくとして、僕は思考ということを大事にする。このサイトでも僕の考えているところのものを記述する。それはいいとしても、下手をすると理屈っぽい人間であるとか、冷たい人間というイメージを持たれてしまうのではないかという懸念もある。その懸念もあって、初対面のクライアントにそのようにお尋ねするのだ。
さて、僕は思考を重視する。一般にカウンセラーは感情の方を重視する。ロジャース派のカウンセラーは特にそうだ。でも、それはロジャースが生きた時代と関連すると僕は思う。当時は感情を抑制する人が多かったのである。戦中戦後のことであり、そういう社会風潮でもあっただろうと僕は思うのである。現代とは時代がちょっと違うのである。
僕は感情よりも思考の方が人間には大事であると考えている。こういってよければ、現代は、感情の障害よりも、思考の障害を示す人の方が圧倒的に多いと僕は考えているからである。
思考について述べようとすると膨大な量を記述しなければならない。現実にこのテーマに関する書物はくさるほどある。それだけテーマとして大きいものであり、内容の豊かなテーマである。
いつか丁寧に記述したいと思っているのだけれど、取り敢えず、ここでは思考について僕の見解を簡潔に述べておこう。
思考と感情は対立するものではなく、補足し合うものである。思考は感情をコントロールし、感情は思考に色彩を与える。思考は感情を方向づけ、感情は思考を人間的なものにする。思考優位な場合は感情が劣位にあり、感情優位の場合は思考劣位の関係にあるというのは部分的に正しいと思うが、一方が高い人は他方もそれなりに高いと僕は思っている。一方が100なら他方も80くらいはある。一方が100で他方が20とかいった在り方が問題になるのだと僕は考えている。
感情は乳幼児も体験する。思考はそれよりも後に生まれ、完成する。感情にも一次的感情と二次的感情がある。つまり発達して、一次的感情から二次的感情が形成されるのだ。思考も同じように発達するとは言え、思考の発達ないしは完成は感情よりも後になる。
要するに、感情よりも思考の方が高次の精神活動である。そうでなければ、感情よりも先に思考が生まれていなければならないからである。ジャクソニズムの見解に従えば、精神の病においては高次のものから障害されるということであるから、感情が障害されるよりも先に思考が障害されることになる。
思考の障害ということは気づかれないことが多い。おそらく思考障害と言っても一般の人にはあまり理解されないだろうと思うし、イメージできないかもしれない。従って、思考障害が見過ごされることになり、さらに障害が進んでから気づかれることになることも多いように思う。
思考障害という前に、まず健康な精神の思考とは何かということを述べておこう。
思考は行動ではないが、行動を節約する。行き当たりばったりでショッピングするよりも、どこで何を買うか、どういうルートで買うか、求めている商品が品切れだった場合にどうするかといったことを事前に考えておく方が労力を省けるのである。思考は行動を節約し、心的エネルギーの経済を効率よくする。従って、思考はその人の適応を助けるものである。
思考にも種類分けすることができる。プラス思考・マイナス思考などという分類は論外である。むしろ生産的思考。非生産的思考とに分ける方が有益である。生産的とは、創造性とか問題解決とか目標達成などに関わる思考である。その反対の非生産的とは、自閉的思考のことであり、どこにも至らず、どこにも方向づけないような思考である。
また、現実的・非現実的という分類もできるだろう。現実的思考とは現実検討である。論理的と言ってもいい。非現実的思考とは空想的な思考であり、非論理的である。しかし、現実的に考えるために現実の枠を一旦取り外して考えてもみるというような思考は、必ずしも非現実的思考であるとは言えない。その思考の目的とか行き着く先が現実的であるか非現実的であるかの違いの方が重要である。
思考は認識に基づく。つまり、僕は僕の認識できているものしか思考の対象にできないのだ。自分の認識範囲に属していないものは思考することができない。
従って、考え方を変えるとは、右を向いていたのを左に向くというようなものではなく、一段高いところに上がるということである。認識次元を上げるということである。見えているものが同じであれば、同じようにしか考えられないものである。
認識されるものには可視的なものだけでなく不可視的なものも含まれる。後者は形而上学である。不可視的とは、目に見えないということであり、例えば、概念とか理論とかいったものがそうであるし、過去とか未来、経験なども含まれるし、心とか精神、神とか倫理などもそこに含まれる。
思考の障害とは、さまざまな形を取るので厄介であるが、高次の思考から低次の思考へ退行することが挙げられる。さらに現実の度合いが低下する。生産性も低下し、自閉的思考などが優位になる。さらに、その思考は心的エネルギーの節約に結びつかず、適応に役立たなくなる。
さらに、その思考は集中化するよりも拡散的になる。つまり、思考が奔逸する。
また、その思考は感情が優位になる。考えて決めるのではなく、感情で決める部分がそれだけ多くなる。そのために感情的正当性が優位になると僕は考えている。倫理や善悪の判断も、思考によってなされるのではなく、感情でなされることになる。
それでも思考がなされるうちはまだいい。精神的エネルギーとか緊張力がそれなりに備わっていることになるからだ。やがて思考も鈍磨する。考えることがなくボンヤリ過ごすか、目的や到達点のない思考のための思考に耽溺したり、非現実的な空想に耽るなどが生活の中心になってしまう。そのような思考は解決や生産性をもたらさず、いかなる決定や選択も不可になる。これらはすべて精神的水準の低下によるものであると僕は捉えている。
クライアントが回復しなければならないのは思考の領域にある。思考が高次機能であり、低次機能のものよりも先に障害されるのであれば、先に思考を守らなければならないということになる。そのために、現実的な思考を意識的にしていかなければならないこともあるだろう。建設性や生産性がないと気づいたら、その思考を軌道修正していかなければならないだろう。思考が悪化するという観念を持たない人も多いので、思考を常に健全にしておくように注意しないといけないのだ。
僕自身も含めて、クライアントは正しく考えることのできる人にならなければならないのである。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)