<T026-15>筆のすさび(1)~カウンセリングを受ける人 

 

 高槻で開業して17年。ずいぶん時間が経過したものだと思う。当時33歳だった僕も50歳だ。生まれた子が高校生になっている期間だ。もともと10年続けられたらいいと思っていた。それ以上にやらせてもらったのだから僕は幸せな方だと思う。 

 経済的状況も厳しい。僕の心身や生活状況の変動もある。この先、どれだけ続けられるだろうか。気持ちとしてはいつ廃業してもいいくらいの覚悟は固めている。それまでにやり残したことのないようにしたいとは思っている。でも、いつも自分の期待通りに物事が進むとは限らない。不慮の事態思いもかけていなかった出来事などに遭遇してしまうことだってありうる。どの人もそれは同じだろう。 

 人は常に何かを目指し、そして完全にそれを達成することなく人生を終えるのだろう。 

 

 勝手に「筆のすさび」なぞというタイトルを付したけれど、この17年間で何を学び、何が見えるようになったのか、そしてこの期間に経験したさまざまな思い出なんかを思いつくまま、筆に任せて綴ってみようと思う。 

 

 一番最初に言いたいことは、「カウンセリングとは病んでいる人が受ける」という迷信についてである。一般の人はそのような印象を持ってしまうのかもしれないし、それはある程度仕方のないことかもしれない。しかし、現場で働いていると、その迷信は正しくなく、むしろ正反対であるということが分かる。 

 結論から言おう。カウンセリングは、病んでいる人が受けるのではなく、良くなりたいと願う人が受けるものなのである。それは病院なんかでも同じである。病気があって、良くなりたい人が病院を受診するのだ。病気があっても良くなりたいと思わない人は受診しないのである。実際にそういう人はいくらでもいるのである。 

 これをお読みのあなたの周囲の人や過去にいた人で思い当たる人がいないだろうか。あちこち具合が悪いと訴える人で、そんなに具合が悪いのなら一度病院に行ったらいいのにとあなたは思うのだけれど、本人は頑固として病院に行きたがらないっていう、そういう人だ。頑固として治療を拒否している人を思い出していただけると、僕の言っていることも理解してもらえるのではないかと思う。 

 カウンセリングも同じである。病んでいる人が受けるものではなく、良くなりたい人が受けるものなのだ。病んでいるか否かは関係がなく、それどころか病んでいようといなかろうと、自分を良くしたいと願う人が受けるものなのである。それは病気がなくとも予防や健康維持のために病院を受診する人がいるのと同じである。 

 だから、病んでいるかどうかに関わらずそういうことに拘泥せず、良くなりたいと願う人にもっと来てほしいと僕は願っている。 

 

 ちなみに、良くなるとか良くするといった表現を用い、「治りたい」とか「治す」という言葉を使用していない点に注目しておいてほしい。両者端的に分類すると、前者は自己改善を求める人たちであり、後者は症状除去を求める人たちである。両者はまったく違った種類の人たちである。このことは機会があれば述べたいと思うし、とても重要なことなのでサイトの第10章辺りで展開することになると思う(注:本HPにおける『治る人・治らない人』)。 

 

 カウンセリングは病んでいる人が受けるという迷信に対して、先ほど、僕はそれは逆だと述べた。これについてもう少し述べておこう。これは非常に簡単な話であるが、述べることが数多くあるので、そのうちのいくつかだけをここで取り上げておこうと思う。 

 まず、その迷信を持つ者は自分は病んでいない、あるいは心の病自分には関係がないと信じていることが多い。心を病むことのない人は最初から心を持っていない人なのである。例えば、両足のない人に水虫の治療が必要でないのと同じで、その人は水虫の治療は足のある人が受けるものだと思うことだろう。それと似ているわけだ。その人には心がないのだ。 

 また、何がその人をして自分の病を発見するのか。それはその人自身の中の健康な部分である。清んだ水の中に一滴のインクを入れるとそれが見える。しかし、濁った水にインクを一滴垂らしても見えないのと同じことだ。健康な部分があるから病んでいる部分が見えるのである。精神病者には病識がないというのはもっともなことなのである。 

 

 では、自分を良くしたいとか、自分を変えたいという人が受けるものであるとすれば、カウンセリングを受ける人のすべてがそのように望んでいるかというと、そうでもない。一部の人は、ただ専門家の意見を聞きに来ましたという態度を採る。自分を変えようとかいう発想をそもそもお持ちでない方々だ。 

 意見を聞きたいというだけの人であっても、僕は面接をしてきた。予約を取る時点ではその人がどのような望みを持っているかは分からないのである。会ってみると、そういう要望をお持ちの方であったということになるわけだ。 

 それはそれで構わないとも思うのであるが、注意点が必要である。本当はその人のことを分かって、その人のことに関して何か言おうとすれば、少なくとも4,5回は面接を重ねていかなければならないのだ。それを、今日いきなり初対面でその人の話を聞いて、今日のうちに何か意見を言ってくれと望むのは、本当は無理な注文をされているのである。専門家であっても、考える時間を与えてくれないというのは、かなり横暴な人たちであるという印象を僕は持っている。 

 仮に一時間その人の話を聞いてみる。そこから、考える時間も与えられずほとんど即興で意見を伝える。それでその人が「そんなことしか言えんのか」などと憤慨されても、それは僕のせいではないのである。もともと筋の通らないことをしているのはそちらの方である。 

 基本的に、こういう人たちは自分と接点を持たない人が多い。自分と接点を持たない人がどういうことをして、どういうことを言うかを知っておくと何かと便利である。自分と接点を持たないというのは、これは自分自身に対してだけでなく、自分が投げ出されている状況なども含むものである。 

 僕が新しいクライアントと会う時、僕はその人が自分を変えようと欲しているものと信じ込んでお会いする。その人がそういうことを望んでいないのであれば、自ずと僕とその人との間にズレが生じる。だからそういう人とは上手くいかないか、そういう人は長続きしないものである。 

 

 さて、17年間いろんな人と面接してきた。カウンセリングを受けるのは自分を変えようとと望んでいる人たちであり、尚且つ、自分自身と接点を持とうとしている人たちが継続されるものである。病気の人が受けるものだという迷信は捨てた方がよいのである。某的な人ほどカウンセリングような作業を敬遠し、カウンセラーを忌避するものだと僕は信じている。 

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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