<T026-12>衰退の道(12)~暴君的な従順さ 

 

 バイトテロ行為の動画を目にすると、「どうしてこんな人を雇ったんだろう」という疑問を持つ人もあるかもしれない。あるいは「こんなことされる前にどうしてそのバイトを解雇しなかったのだろう」などと思う人もあるかもしれない。 

 こうした疑問はもっともであると僕も思うのだけど、いささか表面的な疑問であるように僕には思われる。 

 もちろん、僕はバイトテロ行為をする人の一人一人を個人的に知っているわけではない。だから彼らがどういう人間であり、どういうことをしているかというのは、あくまでも僕の推測に過ぎない。 

 まず、僕は彼らはそれまで従順なバイトだったと思う。言うことは聞くし、言われたことはきちんとしたりする。決して反抗なんてしない、きわめて「扱いやすい」というバイトだったのではないかと思う。それが何かのきっかけとなるような出来事があって、彼らが従順さを撤去するのだと思う。まず、そのような前提に立ってみよう。 

 では、なぜ従順であった人が、何かのきっかけで、その従順さを撤退させ、正反対の方向に進むのか。ここには矛盾が感じられるように見えるかもしれない。あるいは彼が激変したという印象を受けるかもしれない。 

 しかし、次のように考えれば、彼らの行為には矛盾がなくなり、且つ、激変の理由もわかる。それは、敢えて言語化すれば、「私はあなたに従順に従っているのだから、あなたは私を丁重に扱うべきです」という信念である。雇用者側が彼を丁重に扱うことに失敗すると、「あなたが私を丁重に扱わないなら、私は従順であることを止めます」という理屈を取るわけである。そして、今度は不服従を全面に打ち出すというわけだ。つまり、彼の中では矛盾も激変もないのである。彼の中ではバイトテロ行為は自然で当然のことなのである。 

 上述の信念は、例えば一部の自称AC(アダルトチルドレン)たちから僕が読み取るものと同種である。「私はあなたに従順でした。だからあなたは私を養うべきです。私を丁重に扱うべきです」というのと同じである。この場合、「あなた」というのは親である。 

 こうした信念は幼児期のものである。誰でも子供時代にはこうした信念を持って過ごす時期があるかもしれない。しかし、親に従順であることと、親から自立することの間で葛藤を経験するものである。その葛藤は時に「反抗」のような形を取ることもある。そうして苦しみながら人はその時期を通過していくものではないだろうか。 

 僕はこのような信念は「暴君的な従順さ」とでも呼ぼうかと思っている。従順なんだけど、何かの欲求を無理矢理にでも押し付けてくるのである。従順なくせに暴君的に振る舞うのである。 

 もしかすると煽り運転なんかにも同じ信念が働いているのかもしれない。「自分は正しいドライバーである。だからあなたは私に向かってクラクションを鳴らしたり、私を追い抜いたりすべきではない」などといった信念をどこかで持っているのかもしれない。 

 他にも上述のような信念が見え隠れするような場面がある。例えば、「俺は人に対して悪いことは何一つしなかったのに、人は俺に何もしてくれなかった、だから復讐したのだ」といった理屈を訴える犯罪者や「政治家は私に何もしてくれないから、選挙に行かない」と言う投票棄権者にも同じ信念を見る思いがする。 

 こうした信念を持つ人は、上下関係や主従関係に生きているのではない。隷属関係に身を置いているようなものだと思う。「自分は奴隷のように従順である、だから主人は私に対して寛大でなければならない、もし主人がそれを怠れば、私は反旗を翻す」と言っているようなものではないだろうか。 

 確かに、僕たちは自分のことを丁重に扱ってもらいたいとか、大切にしてほしいとか、時には面倒を見てほしいといった気持ちに襲われることはあるだろう。ある程度はそういう感情なり欲求なりをどの人も持っているものだと思う。しかし、それを絶対的なもの、あるいは「神聖」なものにはしない。絶対的なものとみなさないから、それらの願望が満たされなかった時でも、多少は悲しいとか悔しいといった感情が生まれるとは言え、諦めがつくのである。自分の願望がそれほど「神聖」なものではないということを分かっているからである。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

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