<T025-22>文献の中のクライアントたち(22) 

 

 引き続いて『青年期境界例入門』所収のカーンバーグ論文よりケースを抜粋する。thはカーンバーグである。クライアントはclと表記する。後半の( )部分は僕のコメントである。 

 

<本項収録のクライアント> 

(cl90)19歳男子大学生 自己愛例 

 

 

(cl90)19歳男子大学生 自己愛例 

 19歳の大学生が紹介医によってthに紹介された。 

 紹介医は、彼に精神病的ともいえる尊大さ、自己陶酔傾向、障害された対象関係を見ていた。clは歴史と芸術に興味を持っており、それらの分野における拡散した論争を統合しようとして論文を書いていた。紹介医は、clの実際的な価値を評価することはできなかったが、知的能力の高さには強く印象づけられていた。 

 しかし、clが彼自身を語るときの尊大な口調や、子供っぽい自己賛美的態度を、この紹介医は憂慮していた。 

 clは、親しい周囲の人に対して中傷的な振る舞いを示してい。彼の対象関係には少数の人間しか存在していないかのようであった。一方では高度に理想化された模範的人物たち、他方には価値を減額された「凡人」たちがいた。「凡人」たちの中には、家族、大部分の教師たち、大抵の友人・知人たちが含まれていた。 

 紹介医は、彼が天才なのか精神病者なのか、あるいはその両方か、迷っていた。 彼の受診のもともとの動機は異性関係であった。女の子と満足な関係を築くことができないのではないかという懸念が彼の受診動機であった。 

 彼が憧れる女の子たちは、彼にとっては近づき難い存在であるか、あるいは、彼のことを拒絶しているように彼には見えていた。そして、彼自身は彼女たちに対しては極端に内気で、抑制が強かった。彼の心の有り様が女の子との関係にどのように影響しているかについては、彼は詳しく述べることができなかった。 

 同時に、彼に興味を示し、ある程度彼と付き合うことのできた女性が、自分に何か要求してくるのではないかと彼は恐れる。その恐れから、彼はすぐに彼女をけなし、彼女から逃げ出すのであった。 

 時折、彼は意に満たない女性と性関係を持つことがあった。しかし、しばしば性交不能陥り、却って、近づき難い女性を理想化対象にするのであった。以上が彼の異性関係の状況である。 

 彼自身は強い孤独感に悩まされていた。これは彼が仲間を避けているためであり、女性との関係の持ち方にも起因するものである。 

 大学の学業成績にはムラがあった。ある分野では卓抜した知識のために名を成すことができた。しかし、彼自身はっきりしない理由のために、他の教科では低い成績に留まった。そのために、彼に対して批判を向ける教授からは、彼はあからさまに拒絶されていた。 

 内気、抑制、知的に優れていることを誇示する時の「空威張り」、女性との交際が上手く行かないこと、激しく変動する気分など、こうした彼の症状が表面的に見ると典型的な青年像からそれほどかけ離れているようには見えない。これは強調すべき点である。彼は知的文化的価値に関わりを持ち、特定の分野については熱心に勉強し、専門分野では創造性をも発揮している。このことは、彼には昇華能力があり、超自我の統合が可能となっていることを表わしている。彼は衝動をコントロールすることができ、不安に耐えることができ、時折の軽い性的不能を除いては神経症症状を示してはいなかった。 

 さらに続けられた評価面接において、thの印象に残ったのは、彼が女性関係における困難の性質を適切に述べることができず、教官や仲間が彼をどうして拒絶するのかも分からないという点であった。知的に優れているにも関わらず、彼は両親や教官を理解して、生き生きとした人物像として表現することができなかった。当時付き合いのあった2,3人の女性についても同様であった。要するに、対象関係の内容が著しく貧困であり、対象表象の統合欠如と分裂の兆候が認めらるのであった。 

 対照的に、彼の自己像と自己概念は一貫して統合されている。病的に尊大な自己を反映しているものではあるが、自己の統合性が認められる。まだ世に知られていない天才としての自己概念と、女性や社会に対して不安定な感情という、相矛盾することがらをどのように理解しているかについて、彼は上手く説明している。それは次のようなものである。自分は他人との情緒的関係を必要としており、他人なしでは孤独を感じてしまう。そして、他人を必要としながらも、他人と関係が持てないことを気にかけている限り、自分は不安定なのだ。彼はそのように説明した。彼が治療を求めるのは、女性との関係が安定し、自己満足を制限している部分がなくなり、その分だけ学問的著述に専念できるようになるためであった。 

 彼の現実検討力は保たれており、彼は自分の優越感の表われについて現実的に評価することができた。 

 彼はすぐにthのことを、親しげであるが、幾分困惑した、それほど魅力的でもなく、男性的でもない年老いた精神科医とみなした。 

 治療を受けるようにとthに勧められると、彼はthに「チャンスを与えよう」と思ったと言う。しかし、女性にとって魅力があるとは思えない治療者が、果たして自分の女性問題が治せるかどうか、彼は非常に心配していた。 

 彼の診断について。表面的には青年期の障害を示しているように見えるが、基底には重篤な性格病理を認めることができる。診断としては自己愛例である。境界例レベルよりもはるかによく機能している。 

 彼は、後に分析治療に紹介された。二年後の追跡調査では、治療は継続中である。比較的典型的な自己愛転移を発展させている。女性関係の問題については多な変化は認められなかったけど、学業における困難については、特に教授たちとの問題に対して自分がどのような役割を果たしているかについては徐々に理解できるようになっていた。 

 

(このケースの男性clが、境界例ではなく、自己愛例であるというのは、彼の理想化の在り方からもうかがうことができる。自己愛例の理想化と境界例のスプリッティングとは大きく異なる点がある。 

 自己愛例の理想化では、理想化される対象は一定して理想化される。例えばAさんを理想化して、Bさんを軽蔑しているというような場合では、Aさんは常に理想化され、Bさんは常に軽蔑されるという在り方が持続するわけである。Aさんが理想対象から外れても、かつて尊敬した人として当人の心に残ることも多い。もし、自己愛的な人がAさんを軽蔑するようになるとすれば、Aさんとの関係で自己愛的な傷つきを経験するためである。そういう経験をしない限り、Aさんは彼の中で常に理想化されることになると、そのように考えていいだろうと僕は思う。 

 一方、境界例のスプリッティグというのは、Aさんが理想化されたと思うと軽蔑され、軽蔑されていたBさんが尊敬されるなどといったことが起きる。同じ一人の人間が尊敬され、理想化されたり、軽蔑され、価値下げされたりするわけである。 

 このことは自身に対しても起きる。自己愛例では、自己愛的に肥大した自己像を維持するのに対し、境界例では自分自身も良くなったり悪くなったりする。自他に対する評価や見方が、自己愛例では歪んでいるかもしれないけど、ある程度の一貫性があり、境界例では激しく揺れ動くということである。 

 彼の治療目標にも注目しよう。彼が女性問題を解決したいと望むのは、それによって女性とともに満足や幸福を分かち合うためではないのである。そういうことを気にせずに学問に打ち込むことができるようになるためである。ものすごく大雑把に言うと、全く自分の都合だけの目標なのである。交際することになる女性の幸福とか、そういう観点が著しく欠如しているように僕には見えるのだけど、これも自己愛的であるように思う。 

 thに対する見方にも彼の自己愛傾向を見て取ることができる。女性にとって魅力的でないthが女性問題を扱えるのかと彼は心配するわけである。ある意味では自己愛的な鏡像転移と見ることもできそうである。これは「自分と同じ(くらい優れた)人でなければ信用できない」と言っているようなものであり、自己愛的(あるいは自己中心的)な考え方なのである。 

 治療を勧められて、彼はthに「チャンスを与えよう」と思ったという。彼の尊大さが見て取れる部分だ。本当はチャンスが与えられているのは彼の方である。彼はそれを否認しているわけである。相手からチャンスを与えられるということは、相手の劣位に自分を置くことになると感じられるからではないかと僕は思う。彼にはそういう関係が耐えられないのではないかと思う。それが大学の教授や教官との関係でも示されているのではないだろうか。 

 彼は学問の一分野では極めて有能である。しばしば、自己愛的な傾向のある人は特定の分野で大きく成功することがある。もちろん、健全な自己愛のことを言っているわけであるが、学問や芸術などの分野で偉大な作品などを残した人の中には自己愛的な人も少なくない。学問だと、その学問を好きになるだけでなく、その学問に打ち込んでいる自分も好きになるからであると僕は考えている。そして、理想や野心を追求するようになると、ますますその分野にのめりこむことになる。加えて、ここまでのことが分かっているのは自分だけだとか、自分だけがこの分野で群を抜いているといった自負心が生まれ、そこに周囲の評価や称賛が加わり、彼の自己愛が満足されることになる。もちろん、自己愛的な人だけが成功するとか、そういう意味ではなく、自己愛的な人は成功の仕方も自己愛的な色彩を帯びるものであるということである。   

 さて、彼の異性関係にも触れておこう。詳しいことは分からないので、僕の憶測で物を言うことになる。彼は、彼が憧れる女性に対しては近寄りがたく感じている。特に憧れることのない女性とは交際はできるが、性交渉の場面になると彼は性的不能に陥る。こういう構図があるように思われる。 

 自己愛的な人の愛情関係の基本パターンの一つは、相手を称賛し、賛美し、理想化するというものである。自己愛的な人がどうして相手をそこまで賛美するのか、矛盾に思われるかもしれないけど、それはこういうことである。この人は素晴らしい人だ、この素晴らしい人から愛されている自分が素晴らしいという感覚があるわけである。相手の賛美が自己賛美につながるわけである。 

 この関係の一つの変形として、永遠に相手に憧れるというパターンがありそうに僕は思う。現実に交際すると、この理想化が崩される危険もある。それを回避するためには、素晴らしい相手をここまで思っている自分が素晴らしいという関係の持ち方にしなければならなくなる。もちろん本人が意識してそれをしているわけではなく、こうした目的は無意識的なものである。従って、自己愛的な人にとっては、素晴らしい相手に恋い焦がれたままでいる方が安全なのだ。僕はそう考えている。 

 では、憧れることのない女性との関係で彼が性的不能に陥るのはなぜか。彼が直接それに関することを言っているわけではないのだけど、自己愛的傾向の強い人ならこんな気持ちになるのではないかと思う。つまり、「この相手は自分にふさわしい相手ではない(自分よりも劣る人だ)から、この人と性交することは自分の価値が下がる(性交を与えるに値しない相手だ)」といった感情が生まれるかもしれない。その制止が性的不能をもたらしているのかもしれない。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

  

 

 

 

 

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