<テーマ188>ギャンブル依存の心理と生(1) 

 

(188―1)はじめに~ギャンブルを止めたいあなたへ 

(188―2)金銭に関する諸問題 

(188―3)不労所得への誘惑~労働の嫌悪 

 

(188―1)はじめに~ギャンブルを止めたいあなたへ 

 あなたは賭け事はお好きでしょうか。ここで言う賭け事とは、ギャンブルのこと、遊興としての賭け事を指しています。パチンコであったり、競馬であったり、その他諸々の金銭を賭ける賭け事のことであります。 

 予め申し上げておきたいことがあります。大人はギャンブルをすることが認められています。あなたが成人年齢に達しているのであれば、あなたにはギャンブルをする権利(ただし合法的なギャンブルという意味ですが)があるのです。あなたはその権利を有しているのだから、他の人はあなたのギャンブルを止めさせることはできないのです。あなたの有する権利は守られなければなりません。 

 従って、条件を満たしているならば、あなたはギャンブルをしてもいいのです。あなたにはその権利があるのです。私もあなたからギャンブルを取り去るつもりはありません。それは人権侵害だと思うのです。そして、あなたに対してギャンブルを止めなさいとはこれっぽっちも言うつもりはありません。その点はご理解していただきたいと願う次第であります。 

 さて、私はそういうギャンブルは一切しないのです。やってみた経験はあるのですが、一度としていい思いをしたこともなければ、愉しいとも感じたことがないのです。だから、私にはギャンブルに凝る人の気持ちは理解できないと信じているのです。私にはその人たちの気持ちが分からないのです。その点は素直に認めることにします。 

 クライアントの中にはそうした賭け事に手を染める人も何人かおられましたし、さらにそのうちの何人かは自分の賭け事趣味に相当な問題意識を抱えておられました。彼らはその意識を「止めたいけれど、止められない」と口を揃えたようにそう表現されるのです。さらにそのうちの何人かは、その賭け事趣味のために、生活に支障を来している、もしくは生活が破綻してしまっているという人たちでありました。 

 このような人たちが援助を求めてやってくるので、私としても考えなければならないことがたくさんできたのです。私なりに考えてきたことをこれから綴っていくことにするのですが、あくまでも私が考えたところのもの、私の個人的見解であるということを強調しておきたく思います。 

 

(188―2)金銭に関する諸問題 

 このような人たちの抱える問題の一つ、あるいは当人が意識している問題の一つは金銭に関する問題であります。金銭を賭けに使うわけですからこれは当然のことでありますが、しばしばギャンブルのために借金をしてしまうのです。ギャンブルに必要な軍資金をあらゆるところから掻き集めてしまうのです。それで多重債務者になったり、周囲からまったく信用されなくなってしまったりしてしまうのです。挙句の果てには自己破産してしまう人たちもおられます。 

 このような人たちが、さすがに何とかしなければいけないと奮い立ち、援助機関に助けを求めて訪れるようになるのです。私のところにもそういう方々が何人か来られましたし、今現在も来ている方もおられます。求めてくるのであれば、私は助力したいという気持ちはあります。ただし、私としては困ったことに、その人たちはほぼ全員規定の料金が支払えないのです。 

 真剣に取り組むのであればという条件で、私は彼らが支払える額で引き受けることになります。正確に言えば、彼らが現状に於いてカウンセリングのために捻出できる金額と、私が承諾できる金額とを折り合わせた金額であります。個人的にはこのような値引きは私の意に反することなのです。自分を安売りしてしまっているようで、非常に不快なのです。 

一つ付け加えておくことがあります。本項、並びに本テーマに関しては、私が厳しいことを言っているように聞こえるかもしれませんが、実は意図的にそうしているのです。今後も厳しい、耳に痛い表現がなされるかと思いますが、同じ理由により、故意にそうしているのです。そこはご了承していただきたいのです。なぜなら、彼らが自分のギャンブル問題を克服したいのであれば、何よりも彼らは目覚めなければならないと私が信じているからです。 

 さて、上述したことは、つまり料金の値下げということですが、それは次のようなことを意味していることになります。彼らは自分の遊興で(不幸なことにギャンブルは遊興と見做されてしまう)破産してしまい、そこからの回復のためには他者(彼のギャンブルとは無関係だった援助者など)に犠牲を強いても構わないということなのです。本人は決してそんな風には思っていないかもしれませんが、そのような行為になってしまうのです。そして、これはそのままギャンブル依存症の生き方であるように私には思われるのです。 

 私は思うのですが、ギャンブル依存を専門に請け負う援助者や援助機関は意外と少ないように思うのです。書物などもギャンブル依存に関するものは、その他の依存症に比べて、少ないように思うのです。私が知らないだけなのかもしれませんが、私はそのことがとにかく疑問でした。 

 今では私は信じているのです。ギャンブル依存症を専門に扱うことは、損失も多く、利益が上がらないことだと。だからあまり専門的に取り扱いたくないという気持ちになるのかもしれません。いや、私はそうだと信じているのです。リスクが大きすぎるのです。 

 私も経験があります。ギャンブルで身を持ち崩したクライアントを、私は既定の料金の半値で引き受けることにしたのです。しかしながら、この半値の料金でさえ、彼がいつ支払い不能に陥るか分からないのです。不測の事態が生じて彼の出費が少し重なったとすると、それだけでカウンセリングへの支払いが滞ってしまうのです。だから、値下げしても当てにはできないのでした。 

 ギャンブル依存を克服したいと願うのであれば、私は損失覚悟で引き受けることもあります。ただし、真剣に取り組むということが条件であります。そして、真剣に取り組んでもらうためには、ギャンブルにハマったことを徹底的に恥じ、後悔して欲しいと願っています。そうでなければ、そのカウンセリングもギャンブル依存という生き方の延長のものになってしまうからなのです。私はそう考えているので、厳しいことも伝えなければならないのです。 

 さて、依存しているかどうかは別として、人はなぜ賭け事をするのかについて、いくつかその動機に関する部分を取り上げてみたいと思います。また、それに付け加えてギャンブル依存という生き方についても触れていこうと思います。先述のように、私はギャンブルをしないので、以後私が述べていくところのものは、あくまでも私の個人的な憶測にすぎないということを再度お断りしておきます。 

 

(188―3)不労所得への誘惑~労働の嫌悪 

 ギャンブルというと、勝負をして賞金なり賞品なりを手に入れるというイメージしか私には浮かんでこないのですが、いかがなものでしょうか。でも、勝って何かを獲得するということは賭け事の本質でもあると私は思います。 

 この時、獲得した金品は、いわば労せずして所得したものであるわけなので、いわば不労所得ということになるのではないでしょうか。だから、人がギャンブルに凝る一つの動機と言いますか、誘因は、この不労所得への憧れにあると私は思うのです。 

 働かずして所得を得ているなどと言えば、世のギャンブラーたちからお叱りを受けそうであります。「我々は勝負に勝つために日夜ゲームを研究し、何度も試行錯誤を繰り返し(要は負け続けているということですが)、そして頭脳と神経を最大限に活用させて、心身を消耗させ、多くの犠牲と投資を重ねてきているのに、それを不労所得とは何事だ」とおっしゃるかもしれません。 

でも、やはりそれは不労所得だと私は考えます。何かを作っているわけでもなく、販売するでもなく、サービスに努めているわけでもないわけですから、私にはどうしてもそれを労働とは見做せないのです。 

 ところで、誤解のないように申し上げておかなければなりませんが、不労所得に対しての願望というものは、私たちの誰もが持っているものなのかもしれません。スティーブンスンの「宝島」などを初め、私たちは宝探しの冒険物語に親しんでいます。小説にしろ、映画とかにしろ、冒険をして、あるいは勝負をして、一攫千金を獲得したり、美女とか姫を手に入れるといった主題の作品はたくさんあります。私たちはそうした物語を楽しみ、それらを欲しています。私自身にもそれがあることに気づくこともあります。一攫千金の夢みたいなもの、どこかそういうものに対する憧憬が誰の心にもあるのかもしれません。 

 もっと言えば、労働者の中に不労所得を羨望したことがないという人が、果たしてどれだけいるでしょう。働かずしてお金を得て、一生暮らせるだけの所得を保有して、そうして今の労働から解放されたいと願ったことが一度もないなんて人は、私には想像もできないのです。 

 仕事が好きで、コツコツ真面目に働くサラリーマンであっても、年に数回は宝くじを買うという人も私は知っています。その人も、たとえ今の仕事が好きだと言っても、どこかで大金をゲットして、仕事から解放されたいと望んでいる気持ちがあるのかもしれません。 

 従って、人が不労所得の願望を抱いているとしても、あるいは一攫千金を夢見ているにしても、それ自体は問題ではないということなのです。ギャンブル依存の人であろうと、そうでない人であろうと、やはり同じような願望を有していると私は思うのです。ただ、両者の違いは次の点にあり、その点において私は問題を感じるのです。 

 不労所得や一攫千金の願望を抱いていても、私たちは労働を忌避することはないのです。ギャンブル依存の場合、けっこうな確率で労働の拒否、あるいは労働に対する嫌悪感情が顕著に見られるように私は感じるのです。 

 あくまでも私がお会いしたギャンブル依存の人たちに関してですが、その人たちは誰も生まれつきのギャンブラーではなかったのです。人生のある時点からギャンブルに染まるようになったのです。それ以前からギャンブルをすることはあったとしても、決定的にハマっていく時期があったのです。その時期にどういうことが起きているかと言いますと、労働に対する嫌悪が生まれているのです。 

 この嫌悪感情は、例えば人事異動とかで不本意な異動を経験したとか、人間関係や職場が変わって適応が難しくなったといった背景を有し、そこから仕事や職場が以前よりも苦痛に感じられてきているのです。そういう時期にギャンブルの頻度が増えているのです。 

 また、私はあまりお会いしたことはないのですが、完全に労働を拒絶してしまっている人たちもおられるのです。ギャンブルをして、そこで獲得した金銭、物品で生活しているというような人たちであります。生活のための糧を、労働からではなく、ギャンブルだけから得ている人たちであります。恐らく、それで生活が成り立っているいるうちは気が付かないでしょうが、その人たちの労働に対する態度は後で当人を苦しめることになるのではないかと、私は危惧するのです。 

 実際はそこまで労働を拒絶していない人の方が多い、つまり労働しながらギャンブルに依存しているのですが、その場合でも、労働はあくまでもギャンブルの軍資金を得るための手段にしか過ぎないと考えておられるような人も少なくないように思います。労働は、それ自体の目的によって遂行されるのではなく、二次的な目的のためになされるだけのものになってしまいます。嫌悪とか拒絶という言葉はきつすぎるかもしれませんが、やはり働くことに関する何らかの問題を抱えておられるのではないかという印象を私は受けるのです。 

 上述のことがさらに前進すれば、労働の前面にギャンブルが立ちはだかるような事態になる場合もあります。ギャンブルのために会社を休んだり、仕事の合間でもギャンブルの作戦を練っていたりしてしまうのです。労働は背景に追いやられ、常にギャンブルが前景に出てしまっているのですが、これも労働への嫌悪があるからだと思うのです。 

 さて、分量も多くなったので、ここで項を改めたいと思います。労働に関する問題はギャンブル依存の一つの柱となっていると私は感じていますので、繰り返し取り上げることになることと思います。 

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

 

 

 

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