<テーマ191>ギャンブル依存の心理と生(4) 

 

(191―1)信仰としてのギャンブル 

(191―2)マゾヒズム 

(191―3)「陰性治癒反応」 

(191―4)逃避と回避 

 

 

(191―1)信仰としてのギャンブル 

 ある人が話してくれました。その人の知人でひどくギャンブルにハマった人がおられたそうで、その人はギャンブルのために破産した後、ある新興宗教に入信し、それ以来ギャンブルには一切手を出さなくなったそうです。その人は信仰がギャンブル依存を治してくれたというようにおっしゃっているそうです。私に話してくれた方は不思議がっていましたが、私にはそれがひどく頷ける話であるように思いました。 

 私の見解では、その人は単に宗旨替えをしただけなのです。ギャンブルもまた一つの信仰であると私は理解しています。以前の項目で、ギャンブルは超越者とのつながりを取り戻す意味合いがあるということを述べましたが、それと関連することなのです。 

 私が見ている限りでは、ある種の人たちは、あたかも宗教の集会に参加するような感じで、ギャンブルの会場に足を運びます。何かを信じ、何かを取り戻そう、あるいは何かを得ようとされる姿が非常によく似ているなと私は感じるのです。 

 実際、ギャンブルも一つの宗教なのだと思います。「安心」と「救い」を求め、「災難・貧苦」を除去したいという願望は宗教の根幹にあるものと相関すると思うのです。 

 私がギャンブルをしても何一つそれに惹かれないのは、私にその信仰がないからでしょう。私はそのギャンブルの向こうに君臨している対象を何一つ信仰していないのです。その対象が私に望ましいものをもたらしてくれるとは信仰していないのです。だからそれに対して興味が持てないのだと自分では思っています。 

 

(191―2)マゾヒズム 

 精神分析の見解では、人間には二つの傾向があって、片方はサディズム、他方はマゾヒズムと言われています。このサディズムとマゾヒズムは両方とも個人には含まれており、そのどちらが優位であるか、より多く有しているかの違いがあるだけなのです。 

 さて、ギャンブル依存症に陥ってしまう人というのは、一体、サディズムなのでしょうか、マゾヒズムなのでしょうか。そのどちらがより優位であると思われるでしょうか。 

 私は、依存症というものは基本的にマゾヒスティックな行為であると理解しています。外部の依存対象に自分を委ねるということであり、その影響を自ら甘受するという側面が強いからであります。だから「依存症者は基本的にマゾだ」と私は考えているのです。 

 矛盾を感じる人もあるでしょう。なぜなら、以前において、私はギャンブルとは「自分がいい思いをするために、他人が負けてくれたらいい」という性質を有していると述べたからで、この性質はひどくサディスティックなものではないかと指摘されるかもしれません。 

 確かに、ギャンブル依存と言うと、最終的に勝てばよくて、勝った際にはそれまでの負けはどうでもよくなっていたり、負けた人のことは自分よりも下位の存在に貶められていたりすることもあります。こうした傾向はひどくサディスティックに見えます。 

 それでも、私は「依存症者はマゾヒズムである」という見解を固持します。このマゾヒズムは、依存対象に溺れて、その人が再起不能になった時に確実に証明されるものだと理解しています。一回一回のギャンブルでは感じられないかもしれませんが、その積み重ねは最終的な破滅へと導くことになってしまい、いわば一歩一歩その破滅に近づこうとしている行為であるとも理解できるのであります。 

 これは私の勝手な印象ではありますが、ギャンブル依存症者は、勝った時よりも、負けた時の方が活き活きしているように感じられるのです。勝った時は、せいぜい「今日はツイていた」くらいの感情しか湧かなかったりするのに、負けた時は「なにくそ、絶対に次で取り返してやる」などと、却って意気揚々としていたりするのです。 

 今は負けたけれど、「次は勝つ」と息巻いている姿を見ると、たった今経験した敗北はどこへやらという感じであります。もちろん、そういう人ばかりではないでしょうけれど、彼らは負けた時の方がむしろ元気なように私には見えるのです。 

 さて、マゾヒズム、つまり自分自身を苦しめたり痛めつけたりしてしまう傾向というものは、ギャンブル依存においては、その他の場面でも確認できるように思います。 

 まず、ギャンブル依存症者はギャンブルを楽しんでいないのです。実際、パチンコなんかの遊興であっても、イライラしながらやっていたり、怒りで満たされていたりするのです。私から見ると、わざわざそういう感情を体験しに行っているようにも見えてしまうのです。 

 そして、ギャンブルの後、後悔の念に駆られたり、惨めな感情を体験していたりするのです。こうした感情は繰り返し体験されているのですが、当人には不快と感じられないのだろうかと訝りたくなることが私にはあるのです。 

 さらに、彼らは自ら苦境に自分を追い込んでしまうようなことをしてしまうのです。例えば、他人の金銭をくすねたとか、前にも述べたように、妻の大事なお金に手を付けてしまったとかいうようなことをするのです。ギャンブルのために仕事を休んでしまったり、ギャンブルのことで注意が奪われて大きな失敗をしてしまったりなど、苦しい立場に自分自身を追いやってしまうのです。私にはやはりマゾヒスティックな行為であるように見えるのです。 

 また、あくまで私がお会いした数人のギャンブル依存症者においてですが、彼らはかなり「非主体的」であり、「非主張的」であるのです。例えば仕事などに関しても、言われるがままに、流されるがままに就労してきた経緯が認められたりするのです。外側から与えられるものをただ甘受するだけという観を呈していて、これもまたマゾヒスティックな傾向の表れではないかと思うのです。 

 ギャンブルをすること自体がそうした非主体性の上に成り立つものだと私は考えています。パチンコを例にすると、彼らはパチンコ台の前に座り、お金を投入して、ハンドルを回すだけなのです。後は当たりが来るのをただ待つだけなのです。私にはひどく退屈な遊びだと感じられているのですが、彼らは何時間でもそれを続けることができるようであります。こうした非主体的な遊びに親和性が感じられるからだと私は考えています。 

 ギャンブル以外においても、生活のさまざまな領域でこの傾向が見られるのですが、この傾向のために自ら自己改善に向かって動き出そうとしないのです。改善を求める気持ちはあっても、誰かが改善をもたらしてくれると期待する気持ちの方が強くて、自分から改善していこうという気持ちは少ないように思われるのです。 

 これが、アルコール依存や薬物依存の場合であれば、まず身体面で不具合が生じるので、改善を目指す動きがその時点で生じることもあるのです。しかし、ギャンブル依存に関しては、私の個人的な見解に過ぎませんが、なかなかそういう動きが本人に生じないように思われるのです。 

 そして、最終的な結果に陥ってしまいます。彼はギャンブルをしないようにすると決意するのですが、自分を変えようとはなかなか決意しないものであります。 

 

(191―3)「陰性治癒反応」 

 ギャンブル依存がマゾヒズム的であるために、その援助の際には常に「陰性治癒反応」が生じるのです。これを当人に理解してもらうのは並大抵のことではなくて、私が彼らを援助する時には繰り返し悩まされる問題なのです。 

「陰性治癒反応」とは、フロイトが指摘しているのですが、これは最初「成功した時に破滅してしまう人」という性格類型として描写されたものに基づいています。やがて、治療の際に、治療が前進した時に悪化する人として描写されるようになり、これを「陰性治癒反応」と名付けたのです。通常なら回復が見られる時に悪化するという現象を表しているのです。 

 ある人を私は思い出します。彼とは「パチンコに手を出さない」という約束をしました。彼はしばらくはパチンコに手を出しません。しかし、しばらくすると、やむに已まれずパチンコをしてしまったと打ち明けます。私はそれは私との約束を破る行為だと言って、いわば彼を叱ったのですが、彼は叱られるとしばらくはパチンコなしでやっていけます。しばらくして彼はまたパチンコに手を出してしまったと報告します。後はその繰り返しでした。 

 お分かりいただけるでしょうか。私に叱られた後はパチンコから離れられるのです。つまりパチンコを必要とした動機が薄くなっているのです。それでも、そのままパチンコに手を出さなければそれで良しなのですが、上手く進んでいる時に彼はパチンコをします。そうして振出しに戻って、私は彼を叱るのです。何回もそれを繰り返して、ようやく私には理解できたのですが、彼はこの処罰を求めているのだということなのです。 

 彼は自分が処罰されている間は、望ましい自分を体験しているのです。この時、彼はパチンコを必要としないのです。この処罰の効力が薄れてきた時に、彼は処罰を求めすにはいられなくなるということなのです。 

 これに気づいた後、私は彼に如何なる処罰も賞賛を控えるようにしました。彼がパチンコをすればそれをそのままにし、パチンコ禁止が継続できていてもそれをそのまま受け入れるだけにしたのです。私にとっては、これは一つの「賭け」でした。 

 パチンコを通して処罰も賞賛も得られなくなった後、彼はとても苦しそうでした。そして、私に対しても「もう、ここへ来る必要はないと思います」とか「他のカウンセラーならもっとこんなことをしてくれるのに、あなたはそれをしてくれないんですね。ダメですね」といったことを言うようになってきました。先述の理解があるので、私は彼のこうした言葉は私の怒りを引き出すための挑発であって、それによって彼は自分の求める懲罰を得ようとしているのだと考えました。それに対して、「来るも来ないもあなた次第ですよ」とか「あなたはそう思うのですね」と、それだけを返すようにしました。 

 その後、数回を経て、彼は自分の求めるものが得られなかったのでしょう。彼はカウンセリングを止めると言い出しました。その時、私は彼が求めているのが懲罰であることを指摘したのですが、それが彼には理解できないでいました。 

 

(191―4)逃避と回避 

対象が何であれ、それに依存するということは、多かれ少なかれ、逃避の意味合いが含まれています。もちろん、逃避すること自体は悪いことではないとは思います。私たちは誰も四六時中何かに向き合い続けるなんてことはできない相談であり、苦しいことであります。時にはそれから距離を置くこともなければ身が持たないものだと思います。 

 だからと言って、依存症者は回避性の障害を有していると安易に考えてしまわないようにも、私たちは注意しなければなりません。しばしば周囲の人がそういうアドバイスをギャンブル依存症者に与えてしまっていることがあります。間違いとは言えないのですが、彼ら自身、自分が何から逃げているのか意識できていないことの方が多いように思うので、こうしたアドバイスはむしろ彼らを困惑させる結果になることが多いように思います。 

 少なくとも、彼らは自分が何かから逃げているというようには体験していないようであります。その代わりに、彼らは「あのスリルがたまらない」とか「当たりが来た時の爽快感は何物にも代えられない」などと表現したりするのです。回避とか逃避という体験ではなく、別の何かを追及している、求めているといった体験をしているわけなのです。 

 こうした言葉は、何かを回避していながら、尚且つ、回避しているということを否認することで成立する言葉であるように私には思われるのです。 

 これはすべてのケースに該当すると私は考えているのですが、ギャンブル依存にはそれが始まることになった何らかの困難を経験しているのです。この困難に対して、彼らは非常に無力なのです。できればそれを回避したいと望んでおり、同時に無力ではない自分をどこかで経験したいのだと思うのです。 

 困難なことを回避したいという欲求とマゾヒズムとが手を組むととても厄介だと私は考えています。彼は回避します。回避することで処罰を受けます。この処罰は彼には求められているものとしてそのまま甘受されます。事態を回避することで自分が無意識的に求めているものが得られるのであれば、彼はその回避を問題とは感じなくなるでしょう。その代わり、それによって得られる何らかの処罰の方に意識が向かうことになるのでしょう。そして回避傾向、逃避に対してはますます自己から遠ざけられるのだと私は思うのです。その代わり、「今度手を出したらクビになる」とか、処罰の方に目が向けられてしまうのです。 

 

 さて、本項も長文となったのでここで筆を置くことにします。 

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

 

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