<テーマ190>ギャンブル依存の心理と生(3)
(190―1)負け続けの人生
(190―2)無感動と無気力
(190―3)非論理性
(190―1)負け続けの人生
マリオ・プーヅォ(『ゴッドファーザー』の原作者)の小説に『愚者は死す』(早川書房)という作品があります。その物語冒頭にて一人のギャンブラーの一夜が綴られています。そのギャンブラーは長年カジノに通い続け、その夜、彼はこれまでにない「ツキ」を手にしていました。彼は勝ちに勝ちまくったのでした。どんなディーラーも彼の幸運の前では太刀打ちできないのです。そうして、たった一夜にして、彼は莫大な金を手にしたのでした。人生最高の瞬間を迎えたその夜、彼はピストル自殺してしまうのです。
私が初めて読んだときは、この自殺に衝撃が走ったものでした。彼はなぜ自殺しなければならなかったのか。彼がこれまで望んできた瞬間が現実のものになったその夜に、彼はどうして自ら命を絶たなければならなかったのか。私は思うのです。勝つこと、それも莫大に勝つことは、彼自身を裏切ることになったのだと。
ギャンブルをするということは、そしてそれに凝るということは、私の考えでは、人生で負け続けることを意味するのだと思うのです。このこともまた私がギャンブルをしない理由の一つなのですが、ギャンブルをするということは、自分自身に敗北経験をもたらすことになると、そう思うのです。そうだとすれば、ギャンブルをすればするほど、私は負ける自分、惨めな敗北者の経験を重ねてしまうことになりそうに感じるのです。
そして、負けが続けば続くほど、それは自我にとって親和性を帯びてくるようになると思うのです。つまり、もはや負けるということが自分にとっては当たり前のことで、何回負けようと違和感なく受け入れるようになるということなのです。もちろん、私の個人的な見解ではあります。
敗北が自我親和的になるということは、それだけ「勝つ自分」の方が異質な体験になるのです。彼はもはや自分が現実に勝つこと、勝者の経験をするということが信じられなくなっていくと私には思われるのです。
そんなことはないと反論なさる方もおられるでしょう。ギャンブル依存症者も勝つことを目指しているではないかと、彼は勝つことを諦めていないではないかと、そのように思う方もおられるでしょう。でも、私はそうは思わないのです。彼は勝つことをすでに諦めているし、もはや勝つことを目指してはいないのです。むしろ、他の事情のために彼はギャンブルをしなければならなくなっているのです。
彼はもはや「勝つ自分」などというものは眼中にないのです。ただ、目前に迫った何かをやり過ごすことしかなくなっているのです。そしてその場しのぎを続けながら、皮肉にも、彼は「負ける自分」を繰り返し経験してしまうのです。
私の述べていることは度が過ぎているでしょうか。仮にひと月に二十日パチンコをして、一日も勝った日がなかったとしましょう。私は月の三分の二において、「負け」を経験してしまうということになります。私にはそれはとても耐えられないと思うのです。ほぼ毎日のように惨めな自分を体験し続けなければならないなんて、それも自分の意志でもって自らにそれを与え続けなければならないなんて、私には気が狂いそうになる経験だと思うのです。
もう一つ言わせてもらえば、ある人はギャンブルにハマってしまい、「最近、負け癖がついてきたわ」と他人事のように呟きました。彼は何でもないかのように、他人事のように、平気でそれを口にできるのですが、もう少し深刻に捉えてほしいと私は思いました。と言うのは、「負け癖がついたわ」と平気で表現できるということは、彼の中の何かがかなり蝕まれているように思われるからなのです。
(190―2)無感動と無気力
世の中にはいろんな人がいるもので、ギャンブルでは必ず勝つという人も中にはいるかもしれません。でも、大部分のギャンブラーたちは「負け」を経験するものだと思いますし、負け続ける中で時たま勝つことがあるというのが大部分のギャンブラーたちの現実ではないかと私は思うのです。
そうして負け続けるということは、「敗北」経験を重ねることになり、負けることに対して違和感なく自我が受け入れるようになるのではないかと述べてきました。
ギャンブルで負けるということ、有り金全部摩ってしまうということは、とても惨めな経験ではないかと私は察するのです。この惨めな体験を繰り返してしまい、その内、最初の頃のような惨めな感じは薄れていくかもしれません。それに慣れてしまうと言ってもいいでしょうし、惨めな自分が当たり前になってしまうと言ってもいいかもしれません。
こうして、ギャンブル依存症者たちは自分自身や周囲に対しての感情を失っていくものだと私は思います。いわば無感動になり、無気力になるのです。
無感動とか無気力というのは言葉が過ぎるかもしれませんが、感情や感動は限られ、気力もかなり失われるものだと私は思います。例えば、頭の中がギャンブルのこと、次に勝つための資金のことなどで占められていたり、返済のことなどで一杯で、興味や関心が他に向かなかったりしていることも多いように思います。
しばしば、唯一感動が漲るのはギャンブルに勝った瞬間だけになっているという人も見かけます。また、否定的な感情を経験することは多く、喜びとか楽しみとか、そういう肯定的な感情はなかなか経験しなくなってしまっているという人もあるようです。
こうした経験は何かと言いますと、その人の生から色彩が失われていっているということであります。いずれ、回復に関する項目で述べる予定ですが、ギャンブル依存から回復するということは、感動や感情体験を取り戻し、その人の生に再び色彩が戻ってくることなのです。私はそう考えています。
あるギャンブル依存だった人は、その回復の過程において、次のような話をされました。彼は、ギャンブルをしていた頃はギャンブルのことしか頭になかったのでした。その彼は、破産してしまい、もはやギャンブルをしたくてもできないという状況に追いやられたのでした。できないとなればなるほど、それの誘惑は強まるばかりで、彼のギャンブル禁止は相当過酷なものとして体験されていました。そんな時期に彼は私に援助を求めてきたのでした。
彼がギャンブルから遠のくに従って、彼にはいくつかの変化が見られました。ある時、ファーストフードの店頭に張られている商品ポスターを見て、「美味しそうだな」と思ったそうです。取るに足らない些細なエピソードですが、そんな風に思ったりすることは、以前の彼には考えられないことだったのでした。やがて、彼は景色を見て、「いいなあ」と感じたりすることが増えていったのです。
彼の場合、パチンコだったのですが、パチンコ以外の領域で感情体験を重ねていくにつれて、彼はパチンコの誘惑に悩まされなくなっていきました。パチンコ以外に、それも自分の身近なところに、良い物がいっぱいあるということを彼が知っていったからだと思います。
(190―3)非論理性
私が指でコインを弾くので、表が出るか裏が出るか、賭けをしましょう。もちろん、コインには細工なんてしてありませんし、私もいかさまはしません。この時、コインの表が出るか裏が出るかは五分五分の確率であるということは理解できるかと思います。
この賭けを10回やって、その結果が「表裏裏表表裏表裏裏裏」だったとしましょう。この結果を見て、11回目に表が出るか裏が出るかの確率はいくらになるでしょうか。
ちなみに、私は数字が得意ではありません。だから間違っているかもしれません。過去10回において、裏が6回出ています。しかも最後の3回は裏が連続して出ています。あなたは「裏が6割の確率で出ている」というデータを手にしていますし、「3連続の裏は今回が初めてだな。だから次は表になるかもしれない」などという予想を立てたりするかもしれません。でも、過去10回の結果がどうであれ、11回目の表か裏かの確率は、やはり五分五分なのです。これは100回やってみても、101回目の確率はやはり五分五分なのです。
そこで、あなたは自分の条件を良くしようとして、つまり確率の精度をより高めようとして、いろいろ研究するかもしれません。コインを弾く時に、表面を上にして弾く時と裏面を上にして弾く時とでは、結果はどう違ってくるかということを研究するかもしれません。さらに、コインの回転速度、飛距離、滞空時間などを測定して、総合的な計算に基づいて裏か表かを予測するかもしれません。
私の考えでは、いくらそういう努力を重ねたとしても、やはり確率は五分五分のままなのだと思います。私たちはしばしば数字や過去の経験に基づいて予測を立てたりするのですが、こうしたギャンブルに関しては、あまり役に立たないことだと個人的には思うのです。
ある人が私に話しました。その台は100回に1回当たりが出るということで、最後の当たりから20回が経過していました。彼はあと80回の間に当たりが出ると言って、その台で遊んだのでした。
彼の理論が正しい場合、その台は当たりが出たらリセットされるという条件がなければなりません。もし、そういう条件がないならば、最初の当たりが1~100回のうちの1回目で、次の当たりが101~200回の200回目に来るとすれば、その間の開きは198回ということになり、すでに20回が経過しているから、彼はあと178回しなければならないということになります。
ただし、上記の場合、100回に1回というのが、字義通りである場合であります。これが「平均100回に1回」ということであれば、さらに事情が変わってきます。
平均であるとすれば、こういうことも起こり得ます。最初の1回目で当たりが出て、497回目、498回目、499回目、500回目に4連続当たりが出た場合でも、平均して100回に1回ということになります。ここでは496回の開きがあるわけであり、彼が21回目から始めたとしても、476回やって、ようやく次の当たりに行きつくということになります。とても80回どころではないのです。
先ほども申し上げたように、私は数字には強くありません。学生時代の数学の成績なんてそれはひどいものでした。だからここで述べた計算は間違っているかもしれません。
そのことはさておいても、ギャンブル依存症の人たちの計算とか考え方というのは、どこか論理性を欠いているように思われることが多々あるのです。論理性を欠くので、その計算はひどく主観的だったり、思い込みや錯覚が支配的となるように思うのです。その人自身は非論理的ではなかったかもしれませんが、状況が彼を圧倒するに従って、論理性を失うのかもしれません。
非論理的な視点で計算するものだから、その結果とか予測もまた現実的ではなくなっていくように私には思われるのです。どんなギャンブルであれ、次に勝つか負けるか、あるいは次に当たりが来るか来ないか、表が出るか裏が出るかということは、それがいかさまとか細工とかがなされていないという前提であれば、その確率は常に五分五分でしかなく、それ以上にも以下にもならないのではないかと私は思うのです。
それにも関わらず、彼らは「次は来る」とか「次で取り返せる」という妙な計算をされているのです。そして、実際にその予測通りになったということはほとんどないようなのです。予測通りになったとすれば、それは確率の問題よりも偶然性によるところのものが占めているように私には思われるのです。
さて、問題はさらに深刻であります。論理性を失うということは、ギャンブルの予測だけに留まらず、その他の場面においても彼を誤った決断に導いてしまうように思います。ある人は、冷静に考えればそれが間違っているということはわかるのですが、当時はそれがまったく分からなかったというように回想されました。論理的に考えると、それをすると後々自分の首を絞める結果になるということが分かるのですが、その論理性が失われていたがために、彼は望ましくない選択を重ねてしまっていたのでした。
さて、本項も長文となりましたので、この辺りで項を改めることにします。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)