<テーマ189>ギャンブル依存の心理と生(2) 

 

(189―1)運とツキ~特別意識の回復 

(189―2)利己主義~誰かが負けてくれたらいい 

(189―3)他者への無関心と憎悪 

 

 

(189―1)運とツキ~特別意識の回復 

 ギャンブルに凝る人たちに関して、私の個人的見解を続けます。人がギャンブルをする背景に不労所得への誘惑、ないしは労働に関しての何らかの嫌悪感や拒絶感が働いているのではないかということを前項で述べました。今度は少し角度を変えて見てみることにします。 

 ギャンブルに勝った人は「きょうはツイている」とか、負けると「ツイてなかった」などと口にするのを私はよく耳にします。あるいは、「いっちょう運試しするか」と言ってギャンブルをしたりすることもあるようです。 

 ここで言われている「ツキ」とか「運」というものは、一体何を表しているのでしょう。実は私にはそれらが全然分からないのです。でも、分からないなりに考察してみることにします。 

 まず、「ツキ」とか「運」というのはその人を超えたところからもたらされているようであります。個人を超越した何かを指しているのだろうと思います。しばしば「運に見放された」などと、超越した何かは擬人化されて表現されることもあるのですが、それは同時に自分の意思ではどうにもできない対象であることを表しているようにも思えます。 

 占いなんかでも「運勢」が良いとか悪いとか言われたりして、私たちは一喜一憂したりするのですが、「運」が良かろうが悪かろうが、私たちの人生に違いが生じるとは思わないけど、けっこうそういうものに影響されてしまうことも多いようです。 

 では、自分に「運がある」とか「ツイてる」と体験していたり、期待したりするということは、自分がまだ超越者から見放されていないという確信を表明しているのかもしれないと、そのように考えることもできそうに思います。だから、「運がある」「ツイている」時の個人は、特別に選ばれた人間であるかのように自分自身を体験しているのではないかと私には思われるのです。ギャンブルは、そういう特別な自分、素晴らしい自分を再確認したいという感情の表明でもあるのかもしれません。 

 このように考えると、ギャンブルをするということは、自分に対しての特別意識を回復しようという試みであるようにも見えてきます。 

 しかし、この試みは常に成功するとは限りませんし、私の知る限りでは、失敗してしまう人の方が圧倒的に多いように感じています。それは次のような事態をもたらします。 

 自分が超越者から見放されていないかどうかを確認すればするほど、超越者から見放されてしまった自分を再発見してしまうのです。特別な人間であると信じたいと思って繰り返すほど、自分が特別な人間ではないということを痛感させられてしまうのです。超越者とのつながりを維持して、自分を救済しようと試みれば試みるほど、自分には救いの道が閉ざされていることを見てしまうのです。私はこれはけっこうな不幸な事態だと思うのです。 

 すると、その人はますます超越したものに縋るようになるかもしれません。「運」や「ツキ」にしがみつけばしがみつくほど、その人は相対的に自分自身を頼りない存在として経験しなければならなくなるのではないかと、私はそう思うのです。 

 実際、私がお会いしたギャンブル依存の方々というのは、どこか生気を欠いていたり、骨抜きにされたようになっていたりして、あまりにも無力な状態に見えるのです。その姿を見ると、相当不幸なことを繰り返してきたのだなと感じると同時に、嫌というほど超越者から見放されてきたのだなとも思うのです。言葉は悪いですが、とても哀れで、切ない人たちのように私には思えてくるのです。 

 つまり、「運」や「ツキ」にしがみついたり頼ったりすればするほど、「運」や「ツキ」ということがその人の内面や思考を占めるようになります。そして、それらは個人の外側からもたらされるものでありますから、相対的に個人の内側のものが小さくなっていくということなのです。それが進行するほど、その人は自分が主体的な個人であるという感覚や自分が価値ある人間であると体験する機会が失われてしまうのではと、そのように私には思われるのです。 

当然、「運」や「ツキ」から見放されてしまうほど、その人は自分自身の価値を感じることが難しくなるでしょう。なぜなら、超越者に見放される自分、そういう価値のない自分を繰り返し体験し続けてしまうからであります。 

 

(189―2)利己主義~誰かが負けてくれたらいい 

 さて、私はギャンブルをしないのですが、私自身、一度もそういうものに勝った経験がないからなのです。ビギナーズ・ラックというものも私には該当しなかったのです。でも、そのことは私がギャンブルをしない幾つかの理由の一つでしかありません。他にも私がギャンブル嫌いな理由があるのです。 

 私がギャンブルを好きになれない理由の別の一つは、「自分のために他の誰かが負けてくれたらいい」とか「自分がいい思いをするために他人が苦しめばいい」というギャンブルが有する性質にあります。どのようなギャンブルであれ、多かれ少なかれこういう性質が含まれているように私には感じられるのです。 

 ギャンブルに凝る人の中には、時々、自分が勝った時にはいかにも自慢げに、あたかも自分にだけ特別な何かがあるかのように言いふらす人がいます。でも、実際にはその人一人が勝つために、一体、どれだけの人が負けを経験していることだろうと、私は思うのです。 

彼が勝って、賞金を手にしたとしても、その分、他の誰かが損失を被っているはずなのです。しかし、彼らにあっては、「それは負ける方が悪い」という理屈を持ち出したりすることもあります。あるいは、「俺だって負ける時があるんだから、お互い様だろう」とか「負ける奴のことは気にしなくていい」とか、そうしたニュアンスのことを口にする人も私は見たことがあります。 

私にはそれがひどく利己主義的と言いますか、自己中心的であるというような印象を受けるのですが、いかが思われるでしょうか。 

 これがギャンブル依存の生き方にある本質的な部分だと私は認識しています。「自分がいい思いをするために、他の誰かが犠牲になればいい」という傾向であります。 

 例えば、彼らが債務整理をすることも、カウンセリングの値引きをすることも、同じ領域の話であるように私は捉えています。 

 彼らがカウンセリングを受けに来ます。何とか自分の問題を処理したい、克服したいと願っています。しかし、彼らには自由になるお金もなければ、ギリギリの生活をしなければならなくなっていたりします。そこで、彼らはカウンセリングを真剣に受けるから、どうか値段を安くしてくれないかと持ちかけてきたりするのです。 

 本当に真剣に改善を目指すのであれば、私は値引きしても惜しくないとは思う。しかし、ここには矛盾があることが理解できるかと思います。私は彼のギャンブルとは無関係な人間です。彼の面接料金を値引きすることは、私にとっては負担になります。同じ時間を使い、同じ労力を注ぐにも関わらず、私が手にする収入は減ることになるのです。中には続ければ続けるほど私の方が赤字になるというクライアントもおられました。彼が自分の意志で行ったギャンブルのツケが無関係の私にまで回ってきているということなのです。 

 これは、言い換えれば、「私が改善するために、赤字仕事を引き受けてくれませんか」と頼んできているようなものなのです。これはギャンブル依存の生き方の延長なのです。「自分が助かるためには、誰かが苦しんでも構わない」というギャンブルの性質をそのまま私との関係にまで持ち込んでいるわけなのです。彼はギャンブルに手を出すことはなくなったかもしれませんが、それでも彼の中にはギャンブル依存の在り方がそのまま残っているのです。 

 従って、私は本来なら彼らにこう言うべきだったのだと思います。「あなたが真剣に改善を目指すのであれば、私もお手伝いしたいとは思いますが、値引きを求める前にまずは規定額を支払えるだけの資金を準備することが先ではありませんか」と。本音を言えば、ギャンブル依存に対して、これをすることが一番有効な治療なのだと私は信じています。 

 

(189―3)他者への無関心と憎悪 

 上述のように、ギャンブルというのはすこぶる利己的な行為だと私は理解しています。「自分が勝つために他の誰かが負けてくれたらいい」という性質の上に成り立っていると思うからです。 

 これはある意味では非常に利己主義であるわけなのですが、この利己主義は相対的に他者への無関心を増大させるように思われるのです。 

 あるギャンブル依存症に陥った男性は、パチンコで財産も仕事も妻も失いました。彼の妻は彼のギャンブルには目をつむってきたのでしたが、ある時、彼が手を付けてはいけないお金に手を付けてしまったがために、妻が激怒して離婚してしまったのでした。 

 そのお金というのは、彼の妻が個人的に貯蓄していたもので、妻が将来のためにとせっせと貯めていたお金でした。妻は何か将来にやりたいこと、夢とか理想を持っていて、そのための資金を若いころからせっせと貯めてきたのだそうです。彼は妻のそのお金に手を付けてしまったのです。 

 カウンセリングにおいて、彼がその話をしたとき、「自分がどれほどひどいことをしたか分かった」と彼は言いました。正直に言わせてもらうと、彼は全然分かっていないのです。まだ分かっていないのです。一生、彼にはそのことが理解できないかもしれません。 

 彼の言っていることは大部分「後悔」なのです。DV「加害者」の反省の項で述べたことと同種の行為なのです。彼は妻に悪いことをしたと、一見すると「反省」しているようなのですが、実際には「あんなことを私はすべきではなかった」と「後悔」しているだけなのです。人は他人のことで「後悔」はしないものです。「後悔」はすべて自分に関する何かに対してなされるものなのです。だから、彼の話には、妻のことや妻に対する感情などは述べられるけれど、妻が経験したであろう「痛み」に触れることがないのです。彼にはそこに触れることなんて想像もつかないことだろうと私は思いました。 

 彼は、妻の過去からの蓄積と、妻の将来と、ともに妻から奪っていったのでした。ただ、自分がギャンブルをするためにです。 

 一人のギャンブル依存症者の周りには、何人ものそうした「被害者」がいる、私はそう思います。私もまたそういう「被害」を被る側の人間なのです。そういう「被害」を被ってしまう人たちはギャンブル依存症者の数の数倍は存在していると思うのです。その人のギャンブル依存のために泣かされてきている人たちの存在であります。 

 特にこの人たちに対して、ギャンブル依存症者は無関心だという印象を私は受けています。彼らの有している何かなのか、それともギャンブルの世界に浸っているうちにそうなってしまったのか、私には何とも言えないのですが、彼らはその人たちの体験している苦痛には思い至らないのです。 

 実際、ギャンブルにはそういう側面が付き纏っているように私は思うのです。ある人はパチンコで大当たりが出て10万円勝った、などと自慢します。還元率が一割だとすれば、彼が10万円獲得するために、他の人たちが90万円失っていることになります。その90万円の中には、なけなしのお金だったり、他の人のお金だったり、くすねたお金だったりしているかもしれません。たった一人がわずか10万円を勝つために、どれだけの人が悔しい思いをしていたり、そのツケを負わされたり、傷つけられたりしていることだろうと、私はそう思うのです。これは私は賭けてもいい、ギャンブル依存症者は決してそんなことを考えないのです。 

 なぜそこまで断言できるのかと言いますと、彼らは対人関係での問題も抱えているからなのです。それは後に述べることになるかと思いますが、ギャンブル依存には対人面での問題が見出されるのです。それはこの問題のもう一つの柱であると私は認識しております。 

 一つの例を挙げましょう。ある男性はパチンコで身を持ち崩してしまいました。しかし、彼は他人にはすこぶる気前がいいのです。この姿を見ると、彼に対人面での問題があるとは信じられないかもしれません。しかしながら、ギャンブルをすることは、つまり「自分が勝つために他の人間が負けてくれればいい」というような行為をすることは、不特定多数の他者に対して、いわば仕返しをしているようなものなのです。 

 ところで、彼が人に対して気前がいいのは、彼が気前のいい人間だからというわけではなさそうでした。カウンセリングが進んで行く中で、彼は実際にはそんな風に気前よく振る舞うのが嫌だったという感情に気づいていきました。 

 本当はしたくないのだけれど、それをしてしまう自分に疑問を抱き始めましたが、彼はもっと気づいていく必要がありました。それをすることによって、彼に何がもたらされたのかと言うと、その時だけみんなが彼を大切にしてくれるということでした。彼はそれを得たかったのでした。 

 彼は自分自身をようやく振り返るようになりました。彼は自分が好かれない人間で、どうでもいい人間で、ただ人から利用されるだけの人間だと、そう信じていたのでした。不幸なことに、彼をそのように信じさせる出来事が繰り返し彼の身に降りかかっていたのでした。 

 彼はそういう自分に、またそういう自分にした周囲の人たちに対して憎悪感情を抱いていることにも気づいていきました。詳細は省きますが、自分が好かれるためにしたくないことをして、そしてそのために彼はギャンブルをするのです。このギャンブルは「他者への報復」の感情が含まれていたのです。「他の連中が損失を被ればいいのだ」という感情であります。しかしながら、不幸は重なるもので、彼の報復は満たされること少なく、さらに自分の憎悪感情を増大させてしまうのでした。そして、人から好かれるためにはこの憎悪感情は完全に隠蔽しなければならなかったのでした。随分、苦しい生き方を彼はしてきたと思います。 

 彼がそうしたつながりを理解できるようになると、ギャンブル問題に関しての理解も深まり、問題をもっと違った観点から取り上げることができるようになっていったのです。この文章ではそうした過程がすぐに生じたかのような錯覚を与えてしまうかもしれませんが、この認識に彼が至るまでにおよそ一年近くかかっていました。 

 まとまらないまま本項を終えることになるのですが、他者への無関心(他者への愛情の欠如)や憎悪感情もまたギャンブル依存に関係していることが多いように私には思われるので、そうした感情に気づいていくことも必要な過程となるのです。 

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

PAGE TOP