<テーマ119> 「神経症」的な生き方(1)
(119―1)「心の病」の現れ方
「心の病」とか「心の問題」とかいうことは掴みどころがないため、正しく理解することも自覚することも難しいものです。なぜなら、それは身体の病のようには表現されないからです。例えば肝臓を悪くしているとか、腎臓病を患っているとか、胃に潰瘍があるとか、腫瘍が発見されたとか、私たちが身体に関して述べるのと同じように「うつ病」を抱えているとか「不安性障害」を患っているなどと述べることができないからなのです。持病を持っているというように、「強迫性障害」を持っているなどとは言えないわけなのです。つまり、「心の病」というものは、私たちに馴染みのある表現では語りにくいものなのです。
「心の病」はすべてその人の生活スタイル上に現れてくるものです。その人の性格傾向に応じて、現象的に顕現されるものです。そこにはそうしたスタイルや傾向が形成されてきた歴史というものや、それが顕在化される状況というものも大きく関与するのです。ある人の生活パターンやある場面での行動を見て、「その人にはこれこれの病が確認できるようである」という形でしか、周囲の人には言えないのです。精神医学的な診断とは大部分がそのようなものなのです。
人が「神経症」的になるとはどういうことでしょうか。ここでは個々の「病名」は度外視して、「神経症」的と表現します。ある人のどういう傾向を「神経症」的とみなしてよいのでしょうか。それを考えていきます。
(119―2)変化を拒む
私の見解では、「神経症」的な人において、もっとも頻繁に見られるのは、変化を拒むということです。それは望ましい変化であっても、それを恐れ、変化に対して抵抗しようとするのです。変化を恐れるというのは、そこに当人には耐え難いと思われている不安があるためです。
変化に抵抗するということは、言葉を換えて言えば、現状維持を目指していくということになります。中には自分を変えるために様々な試みをする人もあるのですが、その試みはむしろ現状を維持するために役立ってしまっているということも見られます。いわば、頭痛を処理するために、頭痛薬についての専門書を読み、そしてすべての頭痛薬の説明書を読み漁るようなことをするわけです。そして現実に頭痛薬を服用しないのです。「神経症」的な人はしばしばこういうことをしてしまうのです。
これは矛盾を生み出すことになります。頭痛を処理したいのであれば、頭痛薬を服用するという行動ができ、且つ、それが有効であるわけですが、それをせず、回りくどいことをして、却って頭痛の種を増やしているのです。そして、後に述べる完全主義の傾向が、その人をして、すべての頭痛薬の説明書に目を通さなくてはいられなくさせるのです。結局、頭痛はそのままであるし、疲労困憊だけして、何も得られず、何も変わらないのです。「神経症」的な生き方とはしばしばそういうものなのです。
(119―3)逃避と先送り
変化に対して抵抗するということは、様々な点において、逃避的にならざるを得ないということになります。不都合なことに対しては、それがどれだけ当人に必要なことであっても、直面しないようにわざわざ(無意識的に)仕向けるのです。
例えば、短期間で職場を辞め、すぐに別の所へ再就職するということを十数回も繰り返してきたというクライアントと私はお会いしたことがあります。彼は難しい資格を取得しているので、その資格が物を言う限り、再就職先には困らないのでした。彼は転職した理由を語ります。どの理由も聞く人をして納得させるものがあります。そういう話を聴くと、彼が転職するのも仕方がないと思い込んでしまうのです。案外、周囲の人はそれで彼の「症状」を掴み損ねてきたのかもしれません。しかしながら、理由はもっともであれ、彼がどの職場においても二週間以上続いたことがないという部分に、彼はまったく触れることができないのでした。中には三日ももたなかった職場もありました。ここに触れることは、彼にはかなり不都合なことだったのだと思います。彼は、これまでの職場において、何かから逃避しなければならなかったのですが、逃避しているという現実からも逃避しているようでした。決して、その部分を見ないのです。
しばしば、この逃避的な傾向は、カウンセリングや「治療」への抵抗という形でもっともよく顕現されるものです。その際に、よく見られるのは「先送り」にするというものです。「カウンセリングは受けたいけれども、今、忙しくて無理です」というような例を私はいくつも体験しております。受けるか受けないかはその人の自由でありますが、そのようなことを表現される時、その人は自分が先送りしてしまっていることに気づいておられないのです。そして、この「先送り」がどういうことを意味するのかを考えることもないのだろうと私は思います。
(119―4)何を避けるのか
「神経症」的な人は自分が逃避しているとは信じません。むしろ、これだけ苦しんでいるのに「逃避」などと言うのかと立腹されるのです。しかし、個々のケースを見ていくと、やはりそれが逃避なのです。より大きな苦痛から逃避するために、より小さい苦痛の方を選んでしまっている例が多いのです。そして、その人が本当に苦しんでいる方の苦痛、つまり、その人が避けている方のより大きな苦痛には少しも取り組んでいないのです。避けているというのはその部分なのであります。
より大きい方の苦痛、それはしばしばその人の問題の本質にかかわる部分でありますが、その部分は見ないのです。それを見ることは不安を喚起してしまうからです。だから見ないようにするために、意識的にしろ無意識的にしろ、「神経症」的な人は様々な手段を身に付けているものです。
ところで、そこにあっても見えない物は存在しないに等しいという思考は子供の思考なのです。現実には、見ないようにしていても、それが消失したわけではないのです。しばしば「神経症」的な人は、自分が見ないようにしていればそれは存在しないのだと信じているように思われることがあるのです。でも、それは確かに存在しているのです。その人の中のどこかに、やはり存在しており、当人もその存在をどこかで感じているものなのです。時に、そこに目を向けようとさせる人や、それを思い出させる人に対して、彼らは怒り、攻撃さえするのです。その人はそれを見る代わりに、それを見させようとする人を攻撃したくなっているのです。そして、誰かを攻撃することで、その人はそれを見ないまま(存在しないものと思い込みたい)にしておきたいのです。
ところで、不都合なものには目をつむるというのは、一つの適応方式であります。人間、多少はそういうこともできた方が望ましいだろうとは思います。あらゆる物事を直面することは、返って生きづらさを増してしまうかもしれません。しかしながら、そのためにどういうことが犠牲にならざるを得ないかは、おそらく「神経症」的な人の場合、その部分を考えることはないでしょう。どうしても直視しなければならない事柄に関しては、しかもそれを避けることはより状況を悪くするというような場合、直視した方が望ましいと私は捉えております。この点に、「神経症」の人が問題を克服する際の困難と苦痛があるのは確かです。
(119―5)活力の喪失
また、逃避ということに心的なエネルギーを費やしているがために、その人には現実的な適応が制限されてしまいます。活力や生命力が失せているわけです。鍋が噴きこぼれないように見張っていなくてはならない主婦は、台所から離れられないのです。ある一つの事柄に拘泥していると、視野や注意、行動の範囲が狭まり、自由がなくなり、それに拘束されてしまうものです。
思い詰めている人は元気がないように見えるものです。私も内面のことに強く取り掛かっている時は、やはり外的には活力を失っているように見えているのだろうと自覚しております。
私の経験では、内面的に拘泥していたものが一段落していく度に、自分自身が解放され、自由が増してくるような体験をするのです。そして、現実の事柄に対して、より現実的に取り組むことができるようになるのです。「神経症」的な人であれ、そうでない人であれ、内面の事柄に取り掛かっている時は、しばしば活力が失せたような状態になるものですが、「神経症」的な人は常にこの状態に置かれているようなもので、そこからなかなか抜け出せないでいるのです。
最終的にこれが行き着く所は「諦め」であります。その人は自分がそこから抜け出せるかもしれないとは思わないし、違った生き方が自分にあるということも信じられなくなり、「自分はこんなものだ」というような諦めの境地に至ることがあるのです。「問題」を抱えながら、それに取り組もうとしないという人の一部はこのような人なのではないかと私は捉えております。
(119―6)自分を頼りにできない
また、「神経症」的な人は、そうでない人よりも、より他者依存的なのです。これは自分自身を頼りにするということができないためです。そのため、自分の望むことを他者に一任してやってもらおうとする姿勢になるわけです。自分が反省する代わりに、他者から叱責してもらうように動いてしまうのです。自分を罰する代わりに、他者に罰してもらうのです。自分が正しいことをしているかどうか確信を得るために、他者の賞賛を求めてしまう、そういうものに頼ってしまうのです。
それは自分の在り方が他者に規定されてしまうということでもあります。自分がどうありたいかよりも、自分がどう見られているかがその人の価値の中心となり、人の視線に自らを委ねてしまうことになるわけです。自分が「OK」だと信じられず、「あの人がOKだと言ってくれているから、私はOKなのだ」ということになるわけです。そのためには、周囲の人が自分のことを「OK」とみなしてくれるかどうかが、最大の関心事になり、それ以外のものは価値がなくなってしまうのです。従って、相手に「OK」と言ってもらえるためにその人は自分の行動を選ぶのであり、それは自分自身を基準にすることができていないということの証なのです。
もう少し表現を変えるなら、自分を好きになる代わりに、周囲の人から好かれることを望むということであります。自分が好かれている限りにおいて、自分には好かれる価値があるということが確認できるのであり、それが確認できる限りにおいて自分の存在価値が得られるのです。しかし、そうなると他者の好意が存在しないような所では、自分自身の存在が危ういと感じられる、価値がない自分を体験しているということになるのです。
(119―7)他者の拒絶
一方、これと正反対の極として、すべてを自分一人でやろうとする傾向もあります。今度は他者を一切受け付けないのです。これは他者が自分を変える存在になってしまうからです。これも他者依存の一つの形であると私は捉えております。他者からの影響があまりにも強すぎて、それに依存してしまっていることの表れと考えられるのです。
例えば、現実にこういう方とお会いしたことがあるのですが、何でも自分一人でやろうとし過ぎる人がいます。彼はいかにも自立した人のように振る舞っているのですが、その一方で、人からの影響を非常に恐れているようでもありました。もっとも顕著なのは、彼は何でも一人でこなそうとしていながら、本心では他者の助けを非常に必要としていたということでした。その部分(つまり他者を実はすごく必要としているという感情)は、彼には「禁止」されているものであったのです。
他者は傷つける存在か裏切る存在か、とにかく信用ができないのでしょう。しかし、ただ不信に陥っているというだけならまだしも、信用したいのに信用できないということになっているから、彼にとってはとてもたいへんなことだっただろうと思います。
(119―8)一つの見方から離れられない
そして、視野が狭く、一面的になるのです。これはなぜかと言うと、物事を限られた様式でしか見ることができないためです。また、一つの見方を、他の様々な場面で同じように用いてしまうのです。従って、その思考や行動には融通性がなく、柔軟性に欠けていくのです。
例えば、親から嫌われていると信じている人がいるとします。本当に親が嫌っていたかどうかはここでは問いません。しかし、その人が、自分は親から嫌われていたから、先生も私を嫌っているに違いないと信じたり、友人や先輩、同僚たちに対しても、自分のことを嫌っているという証拠を見つけたりするのです。自分は親に嫌われているという見方を、先生や友人たちに対しても同じように用いていることになるのです。親と先生は別人のはずです。友人もまたその人なりの性格や人柄があるわけです。ここでは一人一人の違いは無視されているのです。一つの図式、この例では親との間で経験された図式を、すべての人に対して用いているのです。そしてその図式に従った行動をその人は繰り返すことになるのです。つまり、自分のことを嫌っていた親に対して自分が採っていた態度を、親以外の人に対しても採用してしまうということです。一部の感情転移はそういうものなのです。
融通を失うが故に、一つの枠組みから抜け出ることができないわけです。どのような場面に対しても、特定の行動パターンで対応してしまうのです。これはその人をして不適応にしてしまうものです。
(119―9)本項終わりに
人が「神経症的」になるとはどういうことであるかを、その生の側面から考えてきました。分量が多くなるので、ここで一区切りつけたいと思います。その特徴的な生き方として、変化を拒むこと、逃避や回避をしてしまうこと、そのために活力が喪失すること、それによって自分を頼りにできず、さまざまな形で他者依存的になるということを述べてきました。根底にあるものは葛藤であり、その葛藤がもたらす不安感にあるのです。こうした傾向のために、その人は硬直し、融通や柔軟性を失い、一つの見方や立場から離れることができなくなるのです。このことは、その人の人生がとても窮屈なものとして体験されるということを表すのです。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)