<テーマ60> 依存症を受け入れること
もし、あなたが自分の依存症を克服したいと望んでおられるなら、あなたは自分がそれの依存症であるということを認識し、受け入れなければならないのです。
どのような事柄であろうと、私たちはそうして自分が受け入れた問題しか克服できないものなのです。ある事柄を否認しておきながら、それを克服しようというのは無理な話なのです。それはいたずらに問題を複雑化し、克服に一層の時間を要する結果になるのです。
従って、私たちは自分が否認している事柄に対しては、何もできないのであります。それを否認しないで、ありのまま受け入れるということは、克服の過程の第一歩なのです。
ところが、これはとても厳しいことを言っているのであります。それを受け入れることが苦しいから否認しているのに、それを受け入れろということは、敢えて苦しめということなのかと反論される方もおられるでしょう。でも、まさにそういうことを私は述べたのです。ただし、これは状況によってはそれほど苦しい体験とはならないこともよく見受けられることであります。その点については、後ほど取り上げたいと思います。
依存症に陥っている人は、自分がそれの依存症であるということをなかなか認めないものであります。否認するわけであります。それは受け入れることが苦しいというだけでなく、依存対象から切り離されることに対しての抵抗もあるかと思います。
依存症を否認する場合、その否認の仕方にはいくつかのパターンがあるように思います。それをいかに挙げてみることにします。
否認の一つの方法は自分よりも程度のひどい人を引き合いに出して、だから自分はそれほどひどくないと合理化するパターンであります。例えばお酒を毎晩八合飲む人が、「俺よりあいつの方がひどい。あいつは毎晩一升は飲むからだ。あいつに比べたら俺なんかましな方だ」と言うようなものであります。この例では当人自身の飲酒量には触れられていないのであります。そこは否認されているのであります。
否認のまた一つの方法は過去の成功体験を引き合いに出すということであります。実際、毎晩のように酒を飲む人が自分はアル中ではないと豪語したのを聞いたことがあります。私がなぜそう思うのかと尋ねますと、「以前、半年間の禁酒に成功したからだ」とその根拠を明かすのであります。続けて、「だから、止めようと思えばいつでも止められる」と、定番のセリフが飛び出したのでした。「止めようと思えばいつでも止められる」というのは、確かに一つの真実かもしれませんが、その人は現時点において「止めようという思い」を抱けていないということが問題なのではないかと私は考えております。現在の状態や、現在感じている危機感などが否認されているわけであります。
似たような傾向で、一つの判断基準を持ち出してくる人もあります。例えば、アル中は毎日飲む人のことだというような基準を述べて、それに比べて、自分は週に六日しか飲まないからアル中ではないと主張するようなパターンであります。これも同様の否認があるように私は思います。
かつての目的を持ち出す例もあります。例えば自分はアル中ではないと言い張る人がいるとします。その人の言い分は、「酒を旨いと思って飲んでいるし、愉しい酒しか飲まない」ということだとします。かつてはそういう段階もあったかもしれませんが、依存症になるということは、その段階を既に通り越しているのであります。アルコール依存症と診断されるような人であっても、多少なりともその言い分を満たしている人もあるものであります。しかし、前にも述べましたが、美味しいとか愉しいとか、あるいは憂さ晴らしであるとかストレス発散であるとか、そういうことが目的で、その目的を達成する一つの手段としてお酒があったのであります。どのアルコール依存症者も最初の内はその目的を達成していたのであります。それからお酒そのものが目的になることがアルコール依存なわけであります。最初の目的は二次的になるか、もはや目的として機能していないかになっているのであります。でも、当初の頃の記憶は当人にはあるのであります。このような否認の仕方をする人は、そうした最初の頃の記憶に基づいて述べているだけなのではないだろうかと私は思うのであります。
アルコールやギャンブルの依存を否認したくなるというのは、端的に述べますと、それを認めるのが辛いからであります。では、一体どういうことが当人たちをして辛いと思わせてしまうのでしょうか。
アルコール依存の人が、自分の依存症を否認したがるのは、それを認めると、酒が飲めなくなるからだ、つまり、酒から引き離されるのが嫌で否認しているのだと、そのように考えられている方がいらっしゃるとしたら、私はそれは半分しか当たっていないと思います。依存している人が依存対象から引き離されるのは確かに辛いこととして体験されるだろうと思いますが、その人が否認しなければならないのは、もっとその人の自己に関する部分に依存対象が関与しているからであると私は捉えています。
つまり、依存対象を奪われることは、あたかも自己を失うような体験として恐れられているというように私は捉えております。このことは依存症から回復していった人たちが、その回復の過程で語られる言葉からも推測できるのであります。依存対象に依存することを禁じられた依存症者は、自分がなくなったような、虚ろな自分を体験されるようであります。また、その回復過程において、「自分を取り戻しているような感じがある」と述べられることも頻繁にあるのです。こうした言葉から見ても、依存対象は自己でもあったということが推測できるのであります。従って、依存対象は依存症者にとっては自分の一部なのであります。それを失うということに対して、何が何でも抵抗したくなるのは当然なのかもしれません。
このように考えていきますと、依存症の人がそれを否認してしまうということがどういうことなのかが見えてくるように思います。それを否認せず、受け入れたとしたら、その人は自分の何を見てしまうことになるかということであります。
それは空間だと私は考えております。空虚な空間であり、そこは常に満たされなくてはならない空間であります。そこが空虚であるということは、不完全な自分をみてしまうことになるかと思います。そして、とても苦しいのだと思います。この空虚な空間を、自分の不完全さを、否認したいのだと私は思います。
「非依存的性格というのは、離人症の患者にはかなり共通した特徴的な性格である」(『自覚の精神病理』木村敏著 紀伊國屋書店 p19)。依存症者から依存対象を切り離してしまうと、「離人症」を体験している方々と同様の苦しみを経験してしまうのかもしれません。
依存症における自己の問題は、項を改めて考えてみたいと思います。
何かの依存症になっている人は、自分がそれに依存しているということを否認するのであります。その否認のパターンを見ていきました。また、否認するのは、それがその人の自己に関与しているからであり、認めるのが苦しいのは、依存対象から切り離されるだけでなく、自己の一部を失うかもしれないというような恐れもあるのではないかということを論じてきました。そして、依存対象から切り離された時、その人が自分自身の中に見てしまうものについて触れました。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)