<テーマ192>DV関係~コミュニケーション~その歪み 

 

(192―1)はじめに 

(192―2)メタ・メッセージと裏面的交流 

(192―3)省略と仄めかし 

(192―4)惑わかし 

(192―5)選択的非注意 

(192―6)二重拘束 

 

 

(192―1)はじめに 

 DV関係をコミュニケーションの観点から考察することにします。 

 ここではコミュニケーションとは相互のメッセージ伝達と解します。このコミュニケーションには言語的になされるものと非言語的(メタ・メッセージ)なものが含まれ、表面上の交流と裏面的交流とが含まれます。 

 望ましいコミュニケーションとは、伝達しようとする事柄がその通りに相手に伝わることだと私は考えています。その際に、言語的メッセージと非言語的メッセージが可能な限り一致していることが望ましく、裏面的な交流が少ないものであります。 

 ただ、お断りしておかなくてはならないことは、100%完璧なコミュニケーションはあり得ないし、達成できないということと、常に望ましいコミュニケーションに成功するわけではないという点です。双方の置かれている状況や状態によっても、コミュニケーションが上手く行かなかったり、変わってしまったりすることもあるのです。 

 DV関係においては(その他の人間関係の問題でも同様ですが)、当事者間のコミュニケーションが乱れたり歪んだりしている箇所がとても多いという印象を私は受けるのです。 

 本項では、まずメタ・メッセージと裏面的交流について概説し、その後でいくつかコミュニケーションの歪みということを取り上げます。 

 

(192―2)メタ・メッセージと裏面的交流 

 まずメタ・メッセージということを説明します。言語的メッセージには必ずといっていいほど言外のメッセージが含まれるものです。 

 例えば、妻が「あなた、今夜も遅いの?」と尋ねた時、言外のメッセージは「早く帰ってきてほしいわ」であるかもしれません。夫が「うん、遅くなる」と答えれば、夫は妻の言語的メッセージにのみ反応していることになります。「あなた、今夜も遅いの?」に対して「寂しいのかい?」と夫が返したとすれば、夫はメタ・メッセージの方に返答していることになります。夫が「うん、今晩は遅くなるし、お前には寂しい思いさせてしまっているな」と答えれば、夫は妻の言語的メッセージとメタ・メッセージの双方に答えていることになります。 

 DV関係においては、しばしばこのメタ・メッセージの混乱が認められるのです。メタ・メッセージを読み取れないという場合もあれば、混乱したメタ・メッセージが送られるために混乱した返答しかできないということが生じやすいと思うのです。 

 裏面的交流というのは、言語的メッセージは混乱していても、言外のメッセージでコミュニケーションが成立しているという場合を指すのにここでは用いることにします。交流分析で用いられる裏面的交流よりも幾分限定して使っています。 

 例えば、「あなた、今夜も遅いの?」と妻が言います。メタ・メッセージは「あなたはいいわね遅くまで遊んで」だったとします。夫が「黙れ!」と言って妻に手を上げるとします。夫のメタ・メッセージは「こんな家に帰れるか」であるかもしれません。 

この場合、妻からすると「今夜は遅くなるの」と尋ねただけで殴られたという経験をするかもしれません。表面上、夫と妻のコミュニケーションはちぐはぐです。しかし、メタ・メッセージを見ると、「あなたはいいわね、遅くまで遊んでいられて」と「こんな家に帰れるか」は交流としては成立しています。こうした例を裏面的交流と捉えることします。 

 この時、妻は自分がどんなメタ・メッセージを送ってしまっているかに気づいていないかもしれませんし、夫がそのメタ・メッセージを読み違えていることだってあり得るでしょう。DV問題で来談される夫婦と面接していると、殊相手に関して、このメタ・メッセージの取り扱いが不得手である人が多いという印象を私は受けるのです。 

 次に、コミュニケーションの歪みについて、いくつか例を用いて掲げることにします。 

 

(192―3)省略と仄めかし 

 DV「被害者」側の妻によるエピソードです。彼女は夫の行為を許せないと感じていましたが、夫に対しては無抵抗でした。彼女は家族、親族を初め、友人知人に夫のことを相談していました。 

 ある時、夫婦間でちょっとした言い合いが生じました。彼女は夫に「あなたの方が悪いって、みんなが言っているのよ」と言いました。夫は何も言わずその場を去りましたが、数分ほどしてから、夫がものすごい剣幕で戻ってきて、妻に手を上げたのでした。妻は訳が分からなくて、混乱してしまったそうでした。 

 私にこの話をした後、彼女は「夫はまともじゃない」と呟きました。彼女からすればそう見えるのでしょうが、私から見ると、夫はむしろ「正常」な反応を示しているのです。「あなたの方が悪いってみんなが言っている」に対して、夫は正しい応答をしているのです。 

 「あなたの方が悪いってみんなが言っている」という妻の発言には、少なくとも三つの要素が省かれていて、これを言われた夫にしてみると、この発言の何に応答をすればいいのか混乱してしまうだろうと思います。 

 まず、この発言には、夫に対しての妻の見方や感情が含まれていません。妻は自分のそれらを省いて、曖昧にしているのです。 

 二つ目は「みんな」に関する部分で、これは特定の誰とも言っていないし、「みんな」というのがどれだけの範囲の人たちを指しているのかも不明であります。極端な話、この「みんな」は彼女の周囲の数人がそう言っているだけというレベルから世界中の大部分の人がそう言っているというレベルまでがその範疇に入ってしまうのです。誰がそう言っているのかという要素が省かれているのです。 

 三つ目は、その後に続く部分の省略があります。これは「あなたの方が悪いってみんなが言っている」の後に、「だから~」、「それで~」と続かなければ成立しない文章なのです。そして、後続する部分に話し手ここでは妻)のメッセージ、主張が来るはずなのです。例えば「あなたの方が悪いってみんなが言っている」の後に「だから反省して」とか「それで私もみんなの意見に賛成なの」といったように、話し手が伝えたい真意が来ることが期待されるのです。それが来るということが仄めかされながら、省かれてしまっているのです。 

 この事例では、妻は自分自身の何かを伝えようとはしていないのです。彼女は言うでしょう。自分自身の何かを伝えることは夫からの報復を恐れてできないと。一部はそれが該当するでしょう。でも、本当にそれだけなのでしょうか。 

 この種のメッセージは受け手を混乱に陥れるものです。先述のように、このメッセージには省かれている要素が多いために、受け手はこの発話のどこに応対していいかが分からなくなるのです。こうしてこの夫は何も言えなくなってしまうのです。夫からすれば、何だか自分が封じ込められたように体験したのではないでしょうか。それでいて、妻の方は自分の意図する方向、あるいは自分が望む方向へと話を進めていっているのです。この言い合いを早く終わらせるための止めを刺しているようなものではないかと思います。従って、この妻は結果的に、自分を表には出さないでいて、相手をコントロールしているのです。意図的にそうしているとは言えないけれど、結果的にそういうことを妻は夫にしているのです。 

 反応を封じ込められた夫は、その場を去ります。恐らく内面ではひどい混乱を経験していたのではないかと思います。しばらくしてから夫は戻ってきて、妻に手を上げます。妻には理由が分かりません。おそらく夫の方も理由がわかっていないかもしれません。夫にとってははっきりしないメッセージを受け取って、言いようのない反応をするしかなくなっているのかもしれません。夫のリアクションが「正常」だと私が思うのはそのためなのです。夫は不明瞭な何かを受け取っているかがために、明確な反応ができなくなっているのです。 

 

(192―4)惑わかし 

 別の夫婦の会話より。 

 妻が友人と会って、今、夫婦の間で起きていることなどを話してきたというエピソードを夫に話しています。妻は友人たちから理解を得られて嬉しかったと述べました。それを聞いて、夫は「お前らしいな」と返答しました。 

 私のクライアントだったのはこの妻の方でした。彼女は夫から暴力を受けた経験をいくつもしています。この時の夫婦の会話を回想してもらうと、夫から「お前らしいな」と言われた時、彼女は何となく不快な感じ、違和感のような感じを体験したようでした。彼女にはそれがどうしてなのか分かっていませんでした。 

 妻の話を聞いて「お前らしいな」と夫が返答します。夫は妻の体験していることを無視して、そのように体験する妻を「お前らしい」と伝えているのですが、この「お前らしい」というのは夫に属している観念であり、夫の体験しているところのものであります。つまり、妻の話を聞いて、それが「お前らしい」と感じているのは夫の体験していることなのです。 

 夫は自分に属する観念や体験を妻に付与し、夫の経験であるところのものを妻の経験にしてしまっているのです。こうしたコミュニケーションが繰り返されていくとなれば、妻は自分の経験に自信が持てなくなったり、夫の見ている自分に置き換えて、夫の経験を妻がするようになったりするのです。 

 このようなコミュニケーションは、R・D・レインの言う「惑わかし」に近いものだと思います。 

 

(192―5)選択的非注意 

 この言葉はサリヴァンから借用していますが、要は相手のメッセージの一部に注目し、その他は脇へ置いておくという意味で解していただければけっこうです。 

 私たちは相手の発するメッセージの全てに応答することができないものであります。特に、その発言の中身がとても豊富であったり、たくさんの情報が含まれていたりする場合などでは、その中のどこかに注目して、それに応答することになります。通常、相手のメッセージの中の主要な部分に焦点を当て、そこに返答することになります。その他の部分というのは、無視するわけではないけれど、取り上げられないのです。 

 問題となるのは、焦点を当てる箇所が、相手のメッセージの主要部分にではなく、周辺的な部分、些末な部分が選ばれてしまうというタイプのものです。 

 お恥ずかしい話ですが、カウンセラーも時にクライアントに対してそれをしてしまうのです。私も後で気づいたということが何度もありました。問題となる選択的非注意が生じるのは、私の体験では、相手を理解することに抵抗感があったり、どこか私の価値観にそぐわない部分を取り上げなくてはならなくなったりした場合などです。 

 メッセージの受け手がこれをしてしまうと、会話は話し手の意図する方向からかけ離れていくことになります。そして、非常にしばしば、お互いにどこから話が変な方向に逸れたのかということが思い出せないということも起きるのです。 

 

(192―6)二重拘束 

 これはあるメッセージと、それと矛盾するメッセージが同時に与えられてしまう状況であり、しばしば条件付きのメッセージにおいてこれが見られるように私は思います。 

 例えば、「あなたのことは好きだけれど、今度暴力を振るったら離婚するわよ」というような発言は、「あなたが好き」と「あなたとは離婚する」という矛盾したメッセージを含んでいることが分かります。「加害者」はこれをよく言われてしまうのです。そして非常に混乱してしまうのです。いっそのこと「今のあなたのことは好きになれないわ。だから今度暴力を振るったら離婚するわよ」と言ってくれる方が「加害者」には救いになるのです。 

 この「あなたが好き」と「あなたとは離婚する」と矛盾したメッセージを同時に送られた場合、私の考えでは、もっと望ましくないことが生じるのです。発した方は自分が矛盾したメッセージを送ったということに気づいていないだろうと思いますし、おそらく、意図して言ったのではないのでしょう。しかし、受け手である「加害者」からすれば、「では、どうすればいいんだ」という反応が生じるでしょう。この反応は私にはとても自然なものに見えるのですが、この反応は却って「加害者」のフラストレーションを高めてしまうことになることもあります。 

 このメッセージの受け手は矛盾するメッセージに引き裂かれる思いをするかもしれません。そして、この状態は受け手をして暴力の方に方向づけてしまうかもしれません。酷な言い方をしてしまうかもしれませんが、この時、メッセージの送り手は受け手の安定を脅かしておきながら、受け手がそれに対して怒りで反応してしまうことを封じているのです。受け手から見ると、怒りの感情を誘発しておいて、怒りの感情を禁止されるという状況になってしまうのです。だから、「今のあなたは好きになれない。今度やったら離婚する」の方が、却って受け手は混乱しないのです。 

 上記の例は「被害者」が「加害者」を二重拘束しているものでしたが、当然、その逆もあります。双方がそれをお互いにやり合っているという例もあります。そして、これだけは強調しておきたいのですが、上述の例において、「被害者」は意図的にそれをしているのではないということです。結果的に相手を拘束してしまうようなメッセージを知らず知らずのうちに送ってしまっているということなのです。 

相手に対して矛盾したメッセージを同時に送ってしまうのは、この「被害者」が内的に混乱しているためであり、混乱しているがためにメッセージが矛盾してしまうのでしょう。 

 ここでは「好き」と「嫌い」が同時に発せられるという例でした。他にも、許可と禁止が同時に送られたり、誘惑と拒絶が同時に与えられるといった場面が見られたりします。こうしたメッセージは受け手を拘束し、雁字搦めにしてしまい、身動き取れなくさせてしまうのです。お互いに窮屈なのは、双方がこういう形での拘束をし合っているということも少なくないように私は思うのです。 

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

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