8月21日(木):内なる世界
深夜勤務明け。そのまま高槻に出て職場に籠る。朝の7時過ぎくらいには職場入りできた。今日は一日フリーだ。やりたいことを思う存分やろうなどと思っている。
職場に着いたら、まずはゴミ捨てだ。ゴミを捨てる機会がなかなかなく、二袋溜め込んでいて、三袋目に突入している。さすがに捨てなければと思いながらも、高槻に来る日とゴミの日とがなかなか重ならず、やっと今日になって捨てることができた。
それからパソコンをセッティングして、朝食となる。いつもながらのカップ麺だ。それから本を読んで過ごす。
午前中、睡魔に襲われてしまい、仮眠を取る。1時間ほど寝てしまう。起きた時は11時半だった。本は3時間ほど読んだことになるのか。
それから起きて、銀行に行く。少しばかりお金を下ろしておく。今日明日の分だけ手元にあれば十分だ。自分の中に蓄えが十分にあれば、財布に蓄えがなくても不便なことはない。
それから職場に戻って原稿書きをする。公開するかどうかも不明の原稿である。常に書いていないと文章が書けなくなる。その上、言葉が出てこないという僕の持病が生じる。常に書き、頭の中で文章を作成していなければならない。
こういう時、自分が趣味というのは強い。自分の中に何があるのか、自分から何が出てくるのか、自分でも楽しみだ。そうして自分自身に楽しみが見いだせると、それが趣味のようになってくる。そうなると他の趣味が減っていき、趣味にお金をかけるということもなくなっていく。
たくさんの趣味が僕にはあった。嗜好品も多かった。その多くは僕から消え失せ、その他は量や頻度が減少した。
例えば喫茶店に入ることは趣味の一つだった。そこで自分の時間を過ごすのが好きだったのだけれど、今では喫茶店に入るということがなくなった。タバコが吸えない店が多くなったというのも理由の一つなんだけれど、興味がなくなったということの方が理由としては大きい。
コーヒーを飲むことも好きだった。僕は酸味の強いのは好きでなく、苦味がある方が好きだった。マンデリンをよく飲んだものだ。今はそんな拘りもなく、コーヒー自体もあまり飲まなくなっている。
甘いものも口にすることがなくなった。以前はアイスクリームなんかもちょくちょく口にしていたけれど、ここ数年はそれも滅多になくなった。先日、炎天下を歩いた日くらいだ。これも興味がなくなったといった方が当たってる気がする。
食べることにも興味が薄れている。外食はほとんどしなくなっている。するとしてもいつも行く数店に限られている。そして、毎回同じものを食べる。若い頃のようには食べられないし、空腹さえ満たせれば何でもいいといった感情が強い。
古書店巡りをすること、音楽を聴くことやCDを買うことは今でもするが、以前ほど頻繁ではなくなっている。本は新たに買うよりも、以前に買ったものを読み、すでに読んだものを再読するばかりである。CDも以前なら毎月買っていたけれど、今は年に数回だ。すでに所有しているものを繰り返し聴いている。
でも、音楽はやりたい。またキーボードを弾きたいなどと思っているのだが、実現に至らずだ。
新聞や雑誌も読まなくなった。それらをスクラップするということもしなくなった。資料として保存していたものだったが、もうどうでもよくなった。新聞は少しは読みたいとは思う。週刊誌などは、僕の求めているものがそこにはないので、全く興味が失せてしまった。ましてやマンガなんかはさらに読まなくなった。面白いと思えるものと出会えないからだ。
お酒は今でも飲むが、昔ほど量は飲めなくなっているし、飲み屋さんで飲むことがほとんどなくなった。いろんなお店が高槻の駅周辺にはあるんだけれど、どこも行きたいとは思わない。
タバコは相変わらずといったところか。今の生活で、僕がお金を使うことがあるとすれば、大抵の場合はタバコだ。今日のタバコ代が財布の中に入っていたらそれだけで安心できるほどだ。
そうして外の世界に対しての興味は薄れていく一方だ。でも、その分、自分の内なる世界への興味は募る一方である。外の世界よりも内の世界の方が面白い。こうして文章を書くことも、一つの内的創造であり、僕の内から生まれるものである。一つの文章を書きながら、次にどんな文章が僕から生まれるかワクワクしている。内面を見つめることも、文章を書くことも、尽きることのない楽しみを僕に与えてくれている。それだけで僕は十分だ。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)