10月6日(月):みんなバカに見えて
昨日は不調だった。
昼間飲んだのも悪かったかな。そんなに量を飲んだわけではなかったものの、どうにも堪えた。通常なら夜勤に差し支えない量であり、時間でもあったのに、少し残った。
10年くらい付き合いのある飲み友達のNと一緒だった。まあ、友達というほど仲が良いわけでもないが、くされ縁みたいなものだ。Nも近いうちに定年を迎えるそうだ。定年後は生まれ育った九州に戻ろうと考えているらしい。それもいいことだと思う。魚を捌くのが上手いらしい。それで仕事をしてきた男だ。生まれ育った港町だったら仕事はあるだろう。会うのも最後になるかもしれない。
いささか送別会の様相を帯びてしんみりと飲んだ。
先述のように夜勤はキツかった。入荷がハードで、そのせいで僕の休憩時間が潰れたほどだ。休憩時間中に働いたので、勤務時間中にサボる権利がある、などと言って、その後は適度に小休止を挟む。でも、店はヒマだった。たまに行く店舗に応援の形で入ったのだが、久しぶりに入ってみて、こんなにお客さんが少なかったかと意外に思った。
明け方頃、厄介なことが起きた。僕は厨房で探し物をしていた。それがなかなか見つからず手間取ったのだ。店内に戻ると若い男が険しい顔して立っている。僕は全然気づかなかった。チャイムの音も聞こえなかった。
男は僕を見ると「何分待たすねん」と怒鳴る。そないに待たしたのなら悪いことをしたな、僕は詫びる。それが良かったのかどうか、男は次々にまくしたてる。最初は悪いことをしたという詫びの気持ちもあったが、次第に「ああ、めんどくさ」と思い始める。
男は「コーヒー二つや、はよせい」と命令する。僕は急いでいるフリはするが、内心、「へえ、買い物するんや」などと軽蔑し始める。
コーヒーカップを手渡す。僕の中で火に油を注ぎたい誘惑が生まれている。とことんまで怒らしてやりたい気持ちになっている。だから、その場を離れず、その男が出ていくまで傍に佇立していた。
その間も男はウダウダ吹っ掛けてくる。もっと来いと、こちらは思っている。とことん怒らせて、この男から何が出てくるのか見てみたい誘惑と僕は戦っている。正直言って、男の存在なんかどうでもよくなっていた。
ひとしきり文句を言った後、男は出ていった。面倒なのが出ていったというホッとした気持ちと、もっと引き出してやりたかったのにと残念な気持ちとがせめぎ合っていた。
上のエピソードをもう少し補足しておこう。
男は待たされたというんだけれど、本当は彼が「待った」のだ。正確に言うなら、店員が出てこないなら、男は待つこともできるし、店を出て他の店に行くこともできた。選択肢があり、その選択は彼が自由に選んでいいのである。彼は「待つ」方を選択しただけのことだ。その自分の選択が間違ったというだけのことではないか。
ちなみに、僕はそこで「待たない」を選択する。過去にいくつかそういう例がある。高槻の某食堂を思い出す。食券を買ったのはいいけど、待てど暮らせど店員が来ないのである。ああ、忘れられてるなと僕は思い、そのまま店を出たのだ。定食一食分を棒に振ったことになるんだけれど、「客」という地位から降りることが先決だった。
つまり、「客」という地位にとどまり続ける限り、店側に合わせなければならなくなることと、不愉快な感情を持続させなければならなくなるというわけである。僕はそのどちらも拒否する。だからその店の「客」という地位から降りる。自ら降りるわけだ。
僕は宣言してもいいのだけれど、人格障害や精神病の傾向の強い人はそういうことができないと信じている。この店で買うと決めたら、その他の選択肢に思い至らず、あくまでもそれを貫徹するのである。そこで不愉快な思いをしても、自ら傷口を広げるようなことをするのである。それで店員にキレて恥をさらすことになるのだが、自分がそういう恥をさらしているということにはまったく無自覚だ。そして、本当は自分の意志と選択で主体的に「待った」のに、「待たされた」という客体中心の「させられ体験」に翻訳しているのだ。主体性の欠落を見る思いがする。
ゴチャゴチャ当たり散らすくらいなら、そうなる前に他の店にでも行けばよかったのに、バカな男だ。
ほんと、バカな人間が多くなったなと最近は特にそう思う。
このところ毎晩のように暴走族みたいなのを見かける。爆音を轟かせて3,4台のバイクが走りすぎていく。かつてモーニングショーの玉川さんが、あれは自分に注目を浴びるのが目的で、自分はここにいる、見て、という意味があるということを言ってたのを思い出す。1980年代の暴走族にはそういう感情があったかもしれないけれど、今は違うと僕は思っている。自分に注目を集めたいという気持ちより、自分がどこまで影響を及ぼしているかを試したい気持ちが強いのではないかと思っている。
なぜ、そう思うかというと、僕が目にする暴走族は同じルートを何往復もしているようだからだ。北から南へ行ったと思ったら、しばらくすると南から北へ走り、また北から南へ走るということをしているようだからだ。
もし、注目を浴びたいのであれば、広範囲に走った方がその目的に適うはずである。同じところを走るというのは、フィードバックを求めているのかもしれないし、自分の影響を再確認したくて戻ってくるのかもしれない。どうも注目を集めたいという心理とは異なるように僕は思うのだ。
別に玉川さん個人を悪く言うつもりはないんだけれど、暴走族もバカに見えるし、テレビのコメンテーターなんかもバカに見えてしまうことがある。
おっといけない、言い忘れていた。注目を浴びたいというのは、未熟な程度ではあれ、社会性の発達をそこに認めることができるのだ。自分がどこまで影響を及ぼしているか知りたいというのは、さらに社会性の発達程度が低いように僕には思われるのだ。よりアーカイックな自己愛の姿を見るような思いがするのである。そこが違うという意味である。
他にも一番くじやポケモンカードなんかに血眼になる人たちのことを書こうかと思っていたし、自民党総裁に高市さんが決まったことに関しても書こうかと思ていたけれど、面倒臭くなってきたので止めよう。いろんな例を出しても、結論としてバカに見えるっていう所に行きつくんだから、書いてもしょうがないか。何を書いても同じ結論に至るだけだから止めておこう。こういうのも主体的選択である。
それに、あまり周囲がバカに見えるなんてことを言ってると精神病が疑われてしまいそうだ。統合失調症の人、それも初期段階の人にそういう傾向が見られることがある。自己の誇大化が疑われそうである。
自分では、肥大した自我に基づいて言ってるのではなく、現実認識に基づいて述べているつもりである。これを読む人(がいるとすれば)には、それがどの程度伝わっていることやら、誤解されそうである。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

