8月12日(火):ミステリバカにクスリなし~『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン10号』(2)
6「優しき天使」(The Ministering Angel)E・C・ベントリィ
弁護士アーサー・セルビーは、フィリップ・トレントを前に、一人の顧客のことを話している。それはグレゴリー・ランデルという男で、二週間前に亡くなっているのだが、セルビーは相棒とともにランデルの遺言執行人になっていたのだ。ランデルは生前、セルビーを呼び出しているが、それは弁護士じゃなくてもできることであり、ランデル夫人がしてもいいような依頼だった。ランデル夫人はかいがいしく夫の看病をしており、夫のそばには常にこの優しき天使の姿があったという。
その翌日、トレントはランデル氏自慢の庭を拝見したいという口実でランデル夫人を訪れる。それは見事な庭であったが、不自然な点に気づいた。いくつかの植物にだけその名前が付されていたのだ。
ネタバレすると、ランデル氏は遺言の書き換えをしたかったのであるが、妻が常に目を光らせているのでそれができず、庭に暗号を残したということである。この植物名たちからトレントはどのようなメッセージを推理するか、そこが面白かった。
7「死の舞踏」(Dime a Dance)コーネル・ウールリッチ
ジュリーは来ていない。いつもは一緒に来るのに、今夜は彼女は来ていない。ダンスフロアで客の相手をするジンジャーはジュリーのことが気になって仕方がない。その頃、ジュリーはダンサー殺しの餌食となっていたのだ。次の日から、刑事のニックはジンジャーの勤めるダンスホールを張り込むが、一向にそれらしき人物は現れない。一か月もすると、ニックの熱意も失せ、ジュリーの存在そのものも忘れ去られたかのよう。そんなある日、ジンジャーが踊った相手は、その好きな曲といい、特徴的な指輪といい、ジュリー殺しの犯人の特徴をすべて備える男だった。男はジンジャーをダンスホールの外に連れ出そうとする。
ニックもいない。ジュリーは殺人犯と二人きり。いつ男は犯行に及ぶだろうか、ジュリーはどうやって男から身を守り、逃げ出すだろうか、それに彼女に救援は来るのだろうか、そんなサスペンスを盛り込みながら一気に読ませる短編だった。ウールリッチらしい作品だ。
8「身代金」(Runsom)パール・S・バック
ケントとオーリンのクローザーズ夫妻は、ブルースととベッツィという二児に恵まれていた。ある日、子守女のモリーがわずかに目を離したすきに、ベッツィが誘拐されてしまった。
小説『大地』で有名な著者の手による犯罪小説である。しかし、Gメンの捜査や犯人逮捕に重きを置いてなくて、我が子を誘拐された夫婦を丹念に描写している。純文学者の手になるだけあって、その描写は適格であり、彼ら夫婦の焦燥や不安、そして諍いと和解をきめ細かに描いており、読んでいて速やかに感情移入できる。ラストで小男のGメンの発した言葉が印象的であり、そこに本作のメッセージが込められているようである。つまり、民主主義の国である以上誘拐のような犯罪は絶えない、それは民主主義のために支払う代償の一つなのだ。誘拐のような犯罪は避けられないのである。
以上で短編小説は全て読んだ。
続いて「EQMM」第10号の残りの作品を読んでいこう。最後に、その他の読み物のことも書いておこう。
「ぺいぱあ・ないふ」
ミステリ作品の評論のページ。今回は、ミステリから離れて、SFを取り上げる。フレドリック・ブラウンの『火星人ゴーホーム』を取り上げ、そのあらすじを紹介している。フレドリック・ブラウンは、当時の時点で10年近いキャリアがあり、アメリカではすでに大人気の作家なのに、この頃の日本ではほとんど紹介されていなかったのだな。
「望遠レンズ」
これは海外ニュースのページである。いくつかのニュースが羅列されている。
アメリカではコリヤー社の発行する雑誌が相次いで廃刊になったこと、クリスティの戯曲「検察側の証人」の上演がモスクワの批評家からは不評だったこと、新人作家の盗作問題などなどが取り上げられている。
イギリスで人気ミステリ作家のアンケートがあり、トップはアガサ・クリスティであったこと。クリスティと票を争った作家は、デニス・ホイートリー、ナイオ・マーシュ、パトリシア・ウェンウォース、バーナード・ニューマン、ジョン・クリースィの5人であったという。恥ずかしながら、僕は最初の二人しか知らない。
「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」紙での1956年度のベストミステリ作品の一覧も紹介されている。こういうのを読むとまだまだ読んでない作品がたくさんあるなと思ってしまう。
「ミステリガイド~第2講 探偵小説とはなにか」
ミステリの読み方講義という体裁だが、読み方など無いというのが結論だ。自分で読んでみて、つまらないと思ったら駄作であり、面白いと思ったら傑作であると思えとのことである。その際に、これは名作だとかあれは凡作だなどいう権威の言うことを信用してはいけないとのこと。そもそも探偵小説に権威なんてものはなく、もっと自由なものである。それでも、矛盾するようであるが、探偵小説の原型を知るにはポーを読むことを著者は勧めているようである。結局のところ、推理小説作品が膨大になるほど、これからミステリを読もうという人は、権威ある書評家の書評に頼らざるを得なくなるという状況があるようだ。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)