7月9日(水):唯我独断的読書評~『淋しい場所』(1)
オーガスト・ダーレスの短編集『淋しい場所』を読む。18の短編が収録されており、僕の好きな一冊ではあるが、それぞれがどのような話だったか曖昧になっているものも多く、今回読み直す際に各話の記録を残しておくことにする。6話ずつ読むことにしよう。
1「淋しい場所」(The Lonesome Place)
夜を家の中で過ごす人々は、外の闇で何が起きているのか、淋しい場所で何が起きているかを知らない。私とジョニーにとって、それは穀物倉庫だった。街の明かりも人の声も届かない場所だった。夜、そこを一人で通らなければならないとき、子供がどんな思いでそこを走りすぎるか、大人たちには分からない。そこには何かがいるのだ。顔がなく、尖った爪を持つスッポンの足、竜の鱗と尻尾を生やし、家ほども大きく、闇のように黒ずくめの何かがいるなんて、大人には分からないのだ。
本編は著者の恐怖小説での代表的な一篇で、アンソロジーに収録されることもある。著者は繰り返しこのモチーフの作品を書いているが、本編が、内容的にも、心理描写においても、優れていると僕は思う。大人になると忘れてしまうものだけれど、子供時代に怖い場所がどの人にもあったはずである。僕にもあった。怖い場所には何かが潜んでいるような恐怖感を味わったものだ。そんな子供時代の、大人になってとっくに忘れた恐怖心の記憶を蘇らせてくれる一作だ。
その恐怖心を生み出しているのは子供のファンタジーである。ファンタジーはその人にとっては現実である。心理療法やカウンセリングで取り扱うのは個人のファンタジーであり、個人の神話である。心が治るとか変容するとかいうことの意味は、個人のファンタジーの修正、神話の書き換えである。
しかしファンタジーはその個人にとっては現実であっても、本当の現実ではない。本作は子供のファンタジーが現実の怪物を生み出したところに恐怖がある。
2「パイクマンの墓」(Pikeman)
墓碑銘の収集家ジェフリー・モートンは森の中にさびれた墓を見つける。「セプティマス・パイクマン管理官」の墓だった。どうしてこんな寂れた場所に葬られたのだろうか。パイクマン、お前は一体何をやらかしたんだ、モートンが独り言を言っていると、地下からそれに答える声が聞こえてきて。
パイクマンという人物が何をしたのかは曖昧である。インディアン管理官ということであり、自分は不思議な力を授かっていると豪語し、先住民にも白人にも災厄をもたらしたのだろう、最後は絞首刑にかけられている。パイクマンの人物像が明確でないところが恐怖感を掻き立てる。
加えて、モートンの人格が徐々にパイクマンに乗っ取られていくくだりも怖い。ラブクラフトの「チャールズ・ウォード」を彷彿させる。なかなかホラーな一作だ。
3「キングスリッジ214番」(Kindsridge 214)
外は嵐だが電話交換局の一室は静かなものだった。電話が鳴る。未亡人となったベグビー夫人だ。彼女はうちの電話が鳴ったと訴える。彼女の住むキングスリッジ214番に今晩はつないだことはない。その後も繰り返し彼女は電話をかけてきては、電話を繋いでいないかと確認してくる。誰も彼女のところに電話をかけてはいないのに。
主人公は電話交換局の局員である。そこの交換台の一室が物語の舞台である。本作の怖いところは、舞台そのものは平穏な場所であるのに、遠隔の地で、つまりベグビー夫人の周辺で、何か異変が起こりつつあることが示唆されていくところである。嵐の夜というシチュエーションと、猫のクロの存在が巧みな演出となっている。よくできた一作だと思う。
4「黒檀の杖」(The Ebony Stick)
仕事を嫌い、大人たちからは評判のよくなジャック叔父がモード伯母の全財産を相続したことに、一族の者は眉をひそめた。そんなジャック叔父が親類を招待した。大人たちは財産に関する思惑を胸に秘めていたりするが、子供たちにはジャック叔父は何かを恐れているように見えるのだった。そして、夜になると子供たちは音を聞く。規則的にタップするような音だ。彼らは知っている。あれはモード伯母さんの黒檀の杖の音だ、と。やがてモード伯母さんの黒檀の杖はジャック叔父を折檻する。
ろくでなしの息子に未練が残るのか、母親が死後も息子を叱責するといった話だ。どこかほのぼのとしたユーモアも感じられた。大人になれない大人を、大人の視点で描かず、子供の目で描いているところも好感が持てる。語り手が大人だったら、怠け者だが憎めないジャック叔父をもっと辛辣に描いていることだろう。
5「シデムシの歌」(Sexton,Sexton ,on the Wall)
ウサギが動いた。数時間前に死んでいるのに。それは「死体運び屋」のシデムシによるものだった。コーニロ・マーティンズは一匹のシデムシを捕まえる。翌日、隣家のポールとセシーの兄妹にせがまれてシデムシを与える。彼らの祖父ガーナーは実験室にこもり切りという人物だ。やがて、ポールとセシーは祭壇を作り、歌を歌うようになる。コーニロの耳にも子供たちの歌が届く。「シデムシ、シデムシ、柳の木、コーニロ死んだら、食べにこい」。
主人公コーニロは心臓が悪いのか、医者にかかっている。シデムシのエピソードは動物の死後に何が起きるかを示唆しており、コーニロは自分の死をそこへ投影しているのだろう。それはコーニロにとって恐怖であり、シデムシのことが強迫観念にように付きまとってくる。そこへ子供たちの歌が聞こえてくる。それが無邪気であるだけに怖いのだけれど、それはコーニロの観念をさらに刺激する。加えて、謎の実験に没頭しているガーナー老人の存在が不気味である。
6「閉まる扉」(The Closing Door)
ヘンリー・ベスマンの後を継いでユダ教会の寺男の職に就いたのはベン・トムソンだった。ベンはヘンリーから、教会の掃除は暗くなる前に済ませること、という忠告を聞く。その忠告に従ってきたベンだったが、その職について3か月ほど経たある日、仕事が立て込んで教会の掃除が遅くなったことがあった。暗くなってから教会の掃除を始めたベンは、いくら開けても閉まる扉に悩まされる。
オーソドックスなゴーストストーリー。死者が幽霊となって自分の存在を生者にアピールし、どうしてその人物が死んだのかの謎が明かされるというのがこの種の物語の典型的パターンである、と僕は思ている。本作も然りなのだけれど、ドギツイ描写や残酷な場面、凄惨な物語などがない分、好感が持てる。
以上、第1話から6話までを読んだ。系統については恐怖小説になるのだろうけれど、さほどオドロオドロしくもなく、ドギツイ描写もなく、残酷さも少ない。昨今のホラーに馴染んでいる人にとっては物足りなさを感じるかもしれないけれど、僕にはちょどいいテイストである。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)