7月3日(木):唯我独断的読書評~『笑いの遊歩道』(2)
引き続き、後半6話を読む。
7「勝った者がみな貰う」(Winner Takes All)イーヴリン・ウォー
カンバランド夫人の最初の子ジャーヴィスが産まれた時は村を上げてのお祝いとなった。2年後、夫人は女の子を欲しがったが生まれてきたのは男の子でトムと名づけられた。二人の兄弟は健やかに育つが、兄が知力でも体力でも勝り、弟は影の薄い存在だった。母親は兄を重宝し、弟の貰い分さえ兄に渡るように工夫するようになっていく。それは叔父が二人にあてがったプレゼントから、兄弟が成人してからの結婚相手に至るまでになる。
本作は弟を踏み台にして人生の勝者に成りあがっていく兄と、それを陰でお膳立てする母親を描いている。とてもユーモアどころではないと僕は感じるのである。一番怖いのは、すべてが母親の思惑通りに物事が進んでいくくだりである。母親は自分が次男を虐げているという意識がまるでなく、次男のためにはその方が良いなどと合理化しているのである。要するに、母親は自己欺瞞を起こしていることになるのだが、その自己欺瞞にまったく無自覚なのである。兄の方もそうであるかもしれない。二人とも強欲的であり、自己中心的であるように僕には見える。そんな中で殺伐とした感じにならないのは、弟の朗らかな人柄のおかげであろうと思う。
8「歌う猫」(The Cat Who Sang)H・E・ベイツ
音楽好きのウィルフレッドはある時、飼い猫のスージーがシューベルトの「鱒」を見事に歌うことを発見する。彼はさっそく恋人のミス・ベインズに電話をする。彼女は暑い最中にタイプ打ちの仕事をしている。ウィルフレッドの話には興味が持てない。実際にスージーが歌うところを見ても彼女には猫が鳴いているようにしか見えない。ミス・ベインズの同僚ミス・エドワーズはこの話に興味津々で、ウィルフレッドの歌う猫を見に行く。ミス・エドワーズにはスージーが「鱒」を歌っているのがはっきり聞こえるという。こうして、ウィルフレッドはミス・エドワーズと結婚することになる。
面白い作品だ。それに本作は僕の持論を裏付けてくれるようだ。つまり、恋愛とか結婚というものは大部分がファンタジーの共有だと僕は思うのであり、本作はまさにそれを取り上げてくれているように感じられる。猫がシューベルトを歌うかどうかは重要ではなく、ウイルフレッドにはそう聞こえているのであり、それは彼のファンタジーであると同時に一つの心的事実なのである。彼の恋人であるミス・ベインズはそれを共有することができなかった。恋人でもなかったミス・エドワーズはそれを共有できた。だから彼はミス・エドワーズを伴侶に選ぶことになったのだ。また、ミス・エドワーズは髪の色をいろいろ変える趣味を持っているが、猫のスージーに合わせるなど、積極的にウィルフレッドのファンタジーに接近していくところがある。それはミス・ベインズがしなかったことである。一番の成功者はミス・エドワーズということになるのかもしれない。
9「ジョン・ダフィーの弟」(John Dffy’s Brother)フラン・オブライエン
最初にジョン・ダフィーの弟について述べられるのだが、これはほとんど筋には無関係である。なんとも人を食った構成となっている。ジョン・ダフィーの弟は名前も明かされず、ただジョン・ダフィーの弟と表記されるのみである。ある種の没個性感が漂うのであるが、ある日、ジョン・ダフィーの弟は自分が汽車であることを発見する。彼は汽車として働き、行動する。昼休み、彼は汽笛を鳴らして帰宅する。昼食の最中、彼は自分が汽車ではないことを再発見する。彼は怯えた人間だった。だが彼は自分が何も悪いことをしていないと確信して、職場に戻る。同僚たちは彼がまだ汽車のままだと思って声をかけるが、彼自身は元気になっていた。
なんとも不思議な小説である。誰しも一日の中にはちょっとしたパニックになる時間などがあったりすると思う。何気なく不安に駆られるということもあるだろう。その時だけ自分が自分でなくなったかのような体験だ。その体験を戯画しているように僕は受け取った。
10「歓び」(Pleasure)ドリス・レッシング
メアリには一年に二回の歓びがあった。一つはクリスマスであり、もう一つはフランスへの休暇旅行だ。クリスマスを終えてから、彼女は旅行の準備に取り掛かる。イギリスの雨の多い時期にフランスの太陽の下でバカンスを楽しむのである。今回、4年ぶりの旅行となるが、いつも宿泊していた宿には泊まれず、到着早々、宿探しから始まる。ようやく宿は定まったものの、そこは不便であった。ビーチは多くのイギリス人で賑わっている。彼女たちはそこでクラーク夫妻と知り合う。夫たちは魚捕りに夢中だが、メアリの気分は優れない。こうして今年の休暇旅行は締めくくられることになる。
なかなか皮肉な作品だが、ある種の真実が含まれているようだ。僕たちは人生上並びに生活上のイベントを楽しむことが本当にできているだろうか。次のイベントを待つことだけに歓びを感じていることはないだろうか、思わず自分自身を振り返ってしまった。
11「道義心」(Moral Fibre)キングズリー・エイミス
図書館職員であるルイス一家に家事手伝いとして雇われているベティは、ソーシャルワーカーのメイアに紹介されたのだった。メイアはソーシャルワーク一筋といった女であり、彼女によるとベティのような女は道義心に欠けるということだった。
ベティのように堕落した女を矯正しようと躍起になるメイアだが、その思惑に反するように堕落の道を進んでいくベティの対照が印象深い。
ベティは家事手伝いを辞めて2か月後くらいにルイスを訪問しているのだけれど、その時、ベティは何を求めていただろうか、何を言おうとしていたのだろうか。その後、ルイスはメイアとともにベティを訪問しているが、それがベティにとってどういう意味を持っていただろうか。誰もベティの気持ちを理解しないところに本作の寂寞さがあると僕は感じる。ルイスは、理解しないというより、理解できないのだ。メイアは理解しようという気さえないようだ。メイアにとっては、ソーシャルワーカーとしての自分にしか関心が向いていないようだ。
12「文学・哲学・討論愛好会でのスピーチ」(An Address to the Literary,Philosophical and Debating Society)ジョン・ウェイン
文学・哲学愛好会での一官吏のスピーチ。十数年前のある日、彼はいつものように仕事を終え、下宿の部屋で眠った。朝、起きた時、今まで経験したことのない新鮮な体験をした。その日、彼は森に出て、落ち葉のベッドで眠る。眠りがもたらす解放感、彼は生まれ変わったのだった。彼の人生最大の目標は「冬眠した最初の人間になる」ことであった。
日常の何気ない瞬間にふと自分自身がひっくり返されるような体験をすることがある。滅多に訪れることのない体験であるが、人間の一生にはそういう場面が訪れることもある。それは新たな自我の目覚めであり、生き直しの経験となり、人生がそこで転回する経験となる。あたかも、それ以前の自分とその体験以後の自分とが分断されるかのような、自己に生じる大変換である。主人公は、ある日の眠りと目覚めの瞬間にそれが訪れたのである。そういう体験をするなんて羨ましいと僕には思われるのだけれど、それが日常的な眠りからもたらされるというところにいささかの皮肉が感じられてしまう。
以上、『笑いの遊歩道』所収の12篇を読んだことになる。イギリス・ユーモア文学傑作選なる副題がついており、ほのぼのとしたユーモア、ブラックなユーモアなど、多彩なユーモアが満載であるが、僕自身はユーモアという感覚抜きで読んだ。普通にイギリス文学選の感覚で読んだ。巻末の編者による解説も一読の価値あるものだ。
僕の唯我独断的評価は4つ星というところだ。
<テキスト>
『笑いの遊歩道(イギリス・ユーモア文学傑作選)』
澤村灌・高儀進 編
白水uブックス (1990年刊)
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

