6月23日(月):唯我独断的読書評~『神の機械』
マーティン・ケイディンのSF小説『神の機械』を読む。
僕が若い頃、SFに凝った一時期に古書店で購入した本だ。過去、数回チャレンジして、一度も最後のページまで達したことがないという、僕の中で記録的恥を更新し続けていた一冊だ。処分してもよいのだけれど、最後のチャレンジをしておこうと思い立ち、読み始める。
そして、購入してから20数年を経て、初めて完読した。
物語は主人公スティーブン・ランドが部屋で拳銃を片手に身を隠している場面から始まる。そこにガールフレンドのバーバラが訪れる。彼女を迎え入れたスティーブン。やがて、求められるままに彼はバーバラとベッドを共にするが、彼は「敵」の罠と気づく。すでに幾度となく「敵」に操られた人間から命を狙われてきたのだ。
その「敵」とは、彼がその創造に携わった人工頭脳「79」である。コンピューターは人間の道具であるはずだが、コンピューターからすれば人間が道具なのだ。
冒頭第1章のスリリングな展開は読者を一気に物語世界に引きずり込むだけの吸引力があるのだが、その後が少々ダレる。この第1章の続きは第32章から展開されるのである。少々、間が長すぎる気もしないではない。
第2章からはスティーブン・ランドが数学的な才能を持ち、機密計画に携わる心理学者トム・スマイスにスカウトされ、国家的機密計画に加わる経緯が描かれる。
スティーブンは究極の人工頭脳開発に携わることになる。熱核戦争防止をその目的とする人工頭脳であるが、ソ連を追い抜こうと一流の数学者、サイバネティスト、技術者を集大成して進められる国家プロジェクトであった。
次いで物語は彼が対話式の人工頭脳「79」を完成させるまでの経緯が描かれる。正直に言うと、この辺りは僕には退屈だった。サイバネティクスやプログラミングの話など、どうも興味が掻き立てられない。
コンピューターがほぼ完成する頃、恋人のキムとスキーに行く途中、ランドは交通事故に遭い、足を折ってしまう。治療の間、彼はプロジェクトに携わることが制限されたが、この間に「79」は不可思議な要求を技術者に出している。それは催眠術に関する資料であった。やがて、技術者の一人が「79」の前で催眠状態に陥ったことを知ると、ランドは不吉な予感に襲われる。
ランドは「79」と対話する。このくだりは中々スリリングで迫力のあるものだった。この辺りから本書は面白くなり始める。それでも、ストレートに話が進んでほしいところなのに、紆余曲折が挟まれるなど、興味が削がれる感じがする箇所も随所にある。
ランドは「79」が国家を支配しようとしていることを知る。彼はそれを阻止しようと試みるが、「79」の方でも自己防御の手筈を整えていく。さらには、「79」は職員や技術者を次々に催眠術にかけて、ランドを暗殺しようと試み始める。
かつての同僚や友達が今や彼の命を狙う敵となった。誰が敵で誰がそうではないのかランドには見分けがつかない。さらに、「79」がどんな手段でそれを実現するかも分からない。彼は命がけで研究所を脱走する。
「79」の魔の手が及ばないところまで逃げたランド。一時の休暇を取る。たまたま余興でやったポーカーでランドはオールド・マイクにぼろ負けしてしまう。マイク爺さんは言う。「勝つ方法は負けること」だ、と。「それだ!」。その瞬間、ランドの中で光が生まれた。それこそ「79」を倒す秘訣だったのだ。
変装して、身分を変え、研究所に乗り込むランド。トム・スマイスを味方にして、単身コンピューターの中枢に乗り込む。「79」は自ら暗証番号を変え、防御設備を変え、あの手この手を駆使してランドの行く手を阻もうとする。一難去ってまた一難の連続はスリル満点である。ランドは命がけでその目的を果たす。彼は自ら作り出した「79」を自らの手で葬り去るのだ。
まあ、ザックリ言うとそういう内容の小説だ。僕が書くとなんの面白味も感じられないことだろう。興味のある人は古書店などで購入して実際にお読みになられるとよろしい。
上下2段組で250ページほどの小説である。文庫本にしたら350ページから400ページくらいになるだろうか。400ページとしておこう。本書が300ページくらいのものであれば良かったのにとも思う。いささか冗長というか、ダレる箇所があるので、そこは省略してもらえたら良かったのに。
と言っても、そうしてくれたら助かるというのは僕だけの話で、僕が省略したらいいのにと思うところを面白いと感じる人もあるだろう。それに、そこはリアリティを出すために必要な個所であったりする。科学に興味のある人にとっては、科学的な話の方が興味を持てるだろう(僕は無理だ)。
実際、著者のマーティン・ケイディンは科学関係のノンフィクション作家であり、そちらの方で有名になり、その後、フィクションにも手を染めるようになったという人だ。だから、本書にもノンフィクション作家らしい叙述が随所に満ちているわけであり、そこが僕が退屈に思ってしまうところである。
ところで、物語とは関係がない記述だけれど、個人的に興味を覚えた記述も何か所かある。そういう記述を拾えたことでも儲けものだ。以下、それを書き残しておこう。
「勘とは人間が思考することの一要素であり、知恵の能力だ。それは神秘的なものではない」。僕も同感だ。勘とかインスピレーションとかはそれ自体一つの知能だと僕は思っている。勘がいいとか、直感が働くというのも知性の働きだと思う。
「知能の尺度はただ、その知能で何をやるかということで決まるんだ」(ヴォルマー博士の言葉である。「79」に対しての批判とも読める文章だ)。これまた同感だ。知能は知能指数で測られるものではないのだ。知能指数が高かろうと低かろうと、持てる知能をどこにどう活用するかで決まるのだ。
「人間にしろ機械にしろひとつの心が、問題に対する解答を探すとき、その心は問題が解決できた時を知らなければならない。つまり、いつやめるかを知らなければならないのだ」。まさしく真理である。心の病が「治る」というのもそうである。
「本当に人工的なものなどない。ただ再配列があるだけだ。人間にやれるのはわれわれのまわりにころがっているものを再配列することだけだ」。これもまたまったくその通りだと思う。心理療法でも同じようなことをやっているのだ。コンステレーションを変容することであれ、リフレーミングであれ、そうである。
「認識とは、次々と別の感覚要素が集まったものではなく、関係というものを確立する、あるいは作り出す知的能力でなければいけないんだ」。そう、認識とは知的能力なのだ。知覚と同等視されるものではないのだ。知覚よりも一段上の知的作業なのだ。認識が事物間の、人と人との間の、人と事物の間の関係を作っているのだ。
「 」は引用で、その後の文章は僕の言葉だ。名言を聞くとウンチクをたれたがる人もあるが、案外、僕もそうかもしれないな。今、これを書いていて、気づいた。
それはさておき、物語的興味に加えて、こうした目の覚めるような文章とバッタリ遭遇する驚きも楽しめたというわけである。
さて、本書の唯我独断的読書評は3つ星としよう。面白いことは面白いが、それと同じくらい難点(僕にとっては、という意味だ)もある。相殺して星3つというところとなった。
<テキスト>
『神の機械』(The God Machine)マーティン・ケイディン著(1968年)
矢野 徹訳 早川書房
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)