5月9日(金):ニュースより
最近のニュースを見て思うことを書き残しておこう。
昨日は東京でいきなり人を襲うという事件があった。どこかの駅でのことだ。犯人と被害者とは面識もなかったという。
こういう事件は九州でもあった。ファストフード店で中学生が切り付けられたといった事件だ。大阪では車が児童の列に突っ込んだといった事件もあった。
この種の事件は後を絶たないだろうし、今後も発生すると見ておいた方がいい。ともかく一歩外に出たら安全ではないと覚悟しておく方がよい。僕たちはいつどこでそういう事件に巻き込まれるか分からず、そういう危険と隣り合わせで生活していると思っておく方がいい。
不幸にも事件に巻き込まれるかもしれない。そこで命を落とすことになるかもしれない。いざとなれば自力で生き残らなければならない。まさにサバイバルである。
この連休中は飲酒運転による人身事故が全国各地であったらしい。これも上述の事件と同種のものだ。いつ被害に遭うか分からないのである。
飲酒運転していた人たちは「酒は抜けていると思っていた」などと供述しているそうである。つまり、酒は飲んだけど、酔いが冷めてから運転したというわけだ。苦し紛れの言い訳にしか聞こえないのだけれど、一応、その通りだということにしておこう。
どちらの事件でも、加害者は自己を把握する力が弱いのである。後者の場合が分かりやすい。自分が酔っているのかどうか、自分でも分からないということになるからである。前者の方は見えにくいのであるが、自分の心の中でどういうことが起きているのか、その覚知ができていないようである。自己覚知が乏しいというのは、自己が自己から解離されているということではないだろうか。そのため自己は自己と関わることができないのだ。自分に何が起きているのか、何を感じているのか、何を体験しているのか、自分でも掴めないのだ。
僕が思うに、それが現代人の姿なのだ。外側の情報を受け取るだけの存在なのだ。自分の内なるものは、遠ざけられ、触れることさえない。
自己が自己から疎隔され、自己と接点を持たなくなると、そのような状態で生をおくるとなると、そこに生まれるのは倦怠でしかないと僕は思う。人間は外部の受容器に過ぎなくなる。外部の刺激如何によって体験が決定されるだけの存在である。自分が満たされるか否かも外部刺激だけに依存することになるだろう。それは自己の空虚化を生み、倦怠という体験をもたらすだけとなる。僕はそう考える。
人間が変わったのだ。クライアントたちを見てもそう思う時がある。10年前とはクライアントたちの性質も変わってきたという気がしてならない。自分の内に宝石を見出すことを求めず、外部から模造品を与えられることを欲する。それで満足するのである。探求される自己も探求する自己もともに希薄になっているように僕には感じられる。
僕が時代遅れの人間だと自分で自覚しているのもその点だ。時代についていかなければという思いもある一方、追いかけるだけの価値がある時代とも思えない。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)