3月16日:今週のテレビより 

3月16日(日):今週のテレビより 

 

 入院していた母が昨日退院した。一度くらい見舞に行きたかったけれど、僕は僕で多忙だった。 

 母が不在の間、居間でテレビを見る時間もあった。それほど長時間ではないけれど、時折、テレビをつけてはチャンネルを回した。この一週間で印象に残ったものを記しておこう。 

 

(まるでマンガ) 

 僕が一番大笑いしたのは「スーパーサラリーマン清水」だ。違法リフォームで稼いだという男だ。彼が金持ちぶりを披露しているのだけど、その動画で笑ってしまった。まるでマンガだ。それもかなり下手くそなマンガだと僕は思った。「こち亀」でいえば、中川になることができなくて、せいぜい白鳥麗次ってところだ。札束や高級腕時計を見せびらかすアピールなんて、まさに白鳥麗次そのものって感じだったな。会社が倒産して貧乏に転落するオチまで実現しそうな勢いだ。 

 このスーパーサラリーマンは金持ちぶりをSNS上でアピールして、社員を集めていたようだ。あの動画を見て、自分もああいうふうになりたいなんて思う人が現実にいるのだから、僕には信じがたい。現実とマンガの区別がつかない人が多いのだろうか。それとも、否定的同一化にたやすく馴染む人が増えたのだろうか。 

 かつてのライブドアやヒルズ族の連中もそうだったし、ヒカキンとかいう人もそうなんだけれど、成金みたいな人の金持ちぶりアピールが本当に下品だ。成金が悪いとは言わないんだけれど、金持ちであることをアピールするならもうチョイとさりげなくやったらどうかと思うのだ。札束を積んだり、高級品を身に着けたり、豪勢な暮らしをしたり、そういったアピールは、ありきたりなものでなんら創造的でもない。そんな程度の創造性しかないのに金持ちになれるというのは、当人の無能を優秀な部下がかなりカバーしてくれてるからであろう。 

 それに、今の日本の経済状況を考慮すると、金持ちになろうとすればどこかからふんだくりでもしないとなれないだろうと思う。清水のリフォーム会社は客からむしりとったということだそうだ。通常は工費の3割が会社の利益になるのだそうだが、ここは7割も取っていたというのだからひどいもんだ。しかも工費500万円以下のリフォームであれば国の許可を免れるという法を悪用してるのだ。30万円でできる工事に100万円請求できるのだからボロ儲けもいいとこだ。今の日本では、悪いことをしないと金持ちにはなれないということだ。 

 

(まるで物乞い) 

 女性ライバーが配信ライブ中に殺されたという事件があったそうだ。配信ライブの映像から、彼女の居場所を突き止められて殺害されたということだ。 

 殺した犯人の男性は彼女が貸した金を返さなかったためだと言う。殺人は悪いことであるが、その動機にはいささか共感できる。彼は彼女を援助するために金を貸したのだ。彼女が自分の貧困ぶりをアピールして、おそらく彼に同情させて(と意図したかどうかはわからないんだけれど)、金を出させたのだろう。その後、彼から返済の催促があっても、彼女はなんら返済していなかったようである。そして自分は配信ライブをやって、いわゆる「投げ銭」ってやつで稼いでいたというのだから、犯人の憤りも相当なものだったのじゃないかと思う。 

 僕は思う。犯人の男性はお金を貸したのだ。ライバーの方はそれを「投げ銭」感覚で受け止めていたのではないか。どうも「投げ銭」なんてシステムに馴染んでしまうと、貸し借りの感覚が失われそうに僕は思うのだ。 

 一度、クライアントが面接中に現実の「投げ銭」を見せてくれた。彼はそういうのに浪費してしまうということで困っていたのだが。何人か女の子のリストが上がっていて、一人を選んで、彼は100円「投げ銭」したのだ。すると、その女の子が「ありがとう~」とか言って話しかけてきたりする。それだけだ。歌を歌ってくれるでもなく、作品を見せてくれるとかもなく、脱いでくれるわけでもない。まるで乞食だと思った。「投げ銭」で食っているなんて、あまり自慢できないな。物乞いと同じだと僕は思ってしまった。 

 ライバーからすればそれは間違っていると言うだろうと思う。まあ、僕にとってはどうでもいいことである。 

 

(まるで自己中) 

 坂上忍さんのお昼の番組だったな。これをやめて人間関係が楽になったというのを特集していたのだ。その一つに同窓会に行かないというのがあり、レギュラーメンバーの人が「そもそも学校のクラスは好きで一緒になったわけじゃない。強制的に集められた面々だ。卒業しても仲のいい人とは関係が続いているので、わざわざ同窓会に行かなくてもいい」みたいなコメントを発していた。このコメントというか、この思想の何が問題だと思われるだろうか。 

 この思想はなかなか閉鎖的だという気がしている。神経症的な人がしばしばこういう理屈を持ち出すのだけれど、ここにはある種の自己中心性が見られる。自己縮小的で、傷つくことを恐れている場合もあり得る。まあ、僕の個人的な見解に過ぎないんだけれど。 

 とは言え、僕も同窓会には顔を出さない人間だ。このコメントのような理由ではなく、僕なりの理由がある。学校時代に知り合った人は、僕の記憶の中で、そのままの姿であってほしいと願うからである。過去の人は過去に置いておきたいと思うのであるが、これもまた偏屈な思想であるかもしれない。 

 

(煽り運転) 

 自動車の煽り運転のことも見たな。あれは映像で見るだけでも憤りを覚える。どうも自動車の醸し出している無機質感、無人格感がその感情を引き出しているようだ。あきらかに嫌がらせであり、迷惑行為であり、交通法違反なのだけれど、やってる人間のパーソナリティが感じられない(自動車によって隠されている)ためであろうと僕は思っている。 

 僕が子供の頃は自転車に乗るのが好きだった。目の前の景色を見てるのも楽しかった。だから僕の目の前に自転車が走ってると、景色が楽しめないから、悪いけど追い越させてもらっていた。たまに、追い越された人がむきになって僕をさらに追い越すっていうこともあったのを覚えている。「なんやねん、こいつ」などと思ったものだ。自動車の煽り運転も同じような心理なんだろうと僕は思っている。 

 例えば追い越されたとしよう。そこで運転手に不快感が起きる。この不快感を自分ではどうにも処理できないのだろう。要するに自我機能が低下しているということだ。そして、追い越した相手が嫌がるようなことをする。つまり、自分の不快感情の処理に他者を必要としているということである。そうであるとすれば、煽り運転手は被害運転手に依存していることになる。しかし、おそらくだけれど、いくら煽り運転や迷惑行為をしても、自分の不快感情は処理されないのだろう。だから執拗に続くのかもしれない。なんらかの満足が得られれば、その行為は影を潜めていくだろうと思われるからである。そうなると、その手段では求めている満足が得られないことがハッキリしているのに、当人はそれにしがみついていることになる。つまり、他の手段を取ることができなくなり、自己がその行為に束縛されることになり、手放せなくなっている。これもまた自我機能の低下を思わせる現象である。煽り運転なんかの映像を見る度に僕はそういう印象を受ける。 

 

 他にもいろいろある。イシバのばら撒きとか、万博ネタとか、トランプの選民思想であるとか、思うところがあれこれとあるのだけれど、今日はもういいや。書くのが疲れてきた。 

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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