3月12日(水):今日の救いのために
今日はいささか気分的に騒がしい。いろんな感情や観念が僕の中で渦巻いている。バイトのことも、カウンセリングのことも、その他家のことや私生活に関することなど、あらゆることが僕を掻き立ててくるかのよう。とかく、落ち着きを失いがちだ。
今日も夜勤明け。今晩はフリーだが、水曜日にやると決めた作業があるため、今日のフリーは少々ありがたくない。勤務が終わってから、その作業をやった。サービス残業みたいなものだが、僕が個人的にやると決めたことだから別に構わない。それに、スムーズにいけば10分程度で片付く作業だから負担になるわけでもない。
それに、交代で来られた早朝勤務の人の手伝いもしたい。この人の手助けをすることは僕には何の苦もない。人によって評価の分かれる人なんだけれど、僕はこの人は憎めないところがあっていいと思っている。実際、仲良くしている。残業ついでにこの人の手伝いをする。
勤務後は少々缶ビールなどを呑んでしまう。コンビニ呑みだ。いつもなら二本で止めておくのだけれど、今日は三本目に突入してしまった。どうも内面が騒がしく、少しばかりイライラもしておった。気分を鎮めるために、あるいは余計に掻き立てるためだったかもしれないが、ついつい量を越してしまった。
二本目に突入した際に、店によく来る常連さんと一緒になった。僕より一回りほど年上の男性だけれど、彼も朝からカップ焼酎を呑む。四国の地主さんの家に生まれ、若いころからガムシャラに働いて、今はパートで仕事をし、奥さんとは理由あって別居中という男性だ。今日はこれから住之江に行って競艇に興じるらしい。勝負しに行くのだ、と。ああいうギャンブルは勝負ではないと僕は考えているのだけれど、そんなことを口に出して言うほど野暮じゃない。彼がそうしたければそうしていいのだし、彼がそう考えるのは彼の自由である。そして、バスが来ると、カップ焼酎を手にしたまま、急いで乗り込んで行った。
酒飲んで、年を取ると、僕もあんなふうになるのかな、などと思い、一気にお酒がまずく感じられてきた。僕もまた惨めな人生を送っていることをつくづく感じる。
でも、その後、もう一本呑んだ。これは一度飲んでみたいなと思っていたもので、その商品が出たころはよく売れていたのに、今は売れが止まっている感じで、この先、大いに売れ残りそうな気配がある品だ。廃棄防止も兼ねて、一本買って吞んでみる。悪くない。少々値段が高めだが、この品質なら許せる範囲だ。
それから帰宅。朝食を取る。実際には昨晩の夕食だ。昨晩は食べ損ねたので朝に食することになった次第だ。食べていると、激しく睡魔に襲われる。食べながら、椅子に座ったまま寝てしまう。食べては寝て、起きてはまた食べて、それからまた寝てを繰り返し、けっこうな時間をかけて朝食を終える。
時刻は10時になっていた。何もする気も起きない。ぼんやりとテレビを眺めている。「よーいどん」が始まっていたな。見るともなく見る。自分の中にある空虚感を埋め合わせるために見ていただけで、面白いとも何とも感じていなかった。
確定申告を提出しなければ。これは今日必ずやる予定のものだったので、とにかくこなす。記入はほぼ終えてある。今日の日付を記し、身分証明のコピーを添付するだけだ。それを持って区役所に行く。受理だけはしてくれるからだ。
区役所を出て、コンビニに入る。タバコを買っておこうと思ったからだ。僕の前の婦人がレジで手間取ったためにかなり待たされた。タバコ一個買うのもたいへんだと思ったが、それはともかく、デジタルに弱いとこの婦人のような目に遭うことは避けられない。僕も多少とも時代についていかなくてはならんなと思う次第である。
コンビニを出ると、一本喫煙し、高槻に行こうかどうしようかで迷う。今週中に一度は行かなければならないのであるが、行くとしたら今日が一番都合がいい。気が重いが、今日行っておくことにしよう。
電車に乗る。人が多いし、大半は外国の人だ。僕はひたすら持参した本を読む。軽いものを読もうと思い、J・D・カーの『プレーグ・コートの殺人』をチョイスしていた。まあ、軽いかどうかは意見が分かれる作品だとは思うけれど、ミステリが読みたかった。
職場入りしてからはルボルスキーの『精神分析的精神療法の原則』を紐解く。過去に何度も読んだ本だ。どういうわけか、もう一度読みたくなった。
そうしてミステリと専門書を交互に読んで過ごしてきたが、あまり頭に入らず、むしろ何か書きたい気持ちが生まれ、パソコンをセッティングして、このブログを書いている次第である。ダラダラと綴っているのは、書く気持ちはあっても、書く目的が無いからなんだろう。
僕は思う。というか信じている。本当に自分に自信がある人は普通に他人を尊重できるはずである。他人の優位が脅威をもたらさないはずである。ましてや自分が一番なんていう思い上がりもしないだろうと思う。自分と他者との優劣なんて無意味だと思うことだろう。
今、ある人のことを思い出しているのだけれど、自信家のあの人の場合、偽りの自信という感じがしないでもない。あの人と会うと、僕は自分が見下げられているように感じてしまう。僕の思いこみでしかないかもしれないし、それに、見下げられても僕は苦にも思っていないのだけれど、今回、なぜか引っかかるものがある。おそらく、コミュニケーションの齟齬によるものだろうとは察しがついているものの、スッキリしない感じが残るのは、他の何かがそこにあるためかもしれない。もう少し追求してみたい。
それにしても、こうして一日を振り返ってみると、なんとも無為な一日を過ごしてしまった気がしてならない。貴重な一日を棒に振ってしまったかと思うと、なんともやりきれない気持ちに襲われてくる。
でも、まだ今日は終わっていない。残された時間を有意義なものにしていこう。それだけが今日の救いになるだろう。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)