12月31日(水):一年の回顧
2025年も今日で終わり。というか即刻終わってほしい。いい一年ではなかった。ケータイは三回も修理に出すことになったし、本業でも副業でもへまをやらかしたし、大したこともできずに終わる。私生活の方でも大した進展もない一年だった。
人間関係も広げようと思ったが、結局は変わらず孤独な生活を送っている。Oさんと仲良くなれそうだったが、いまでは疎遠になっている。これは僕の方がそうしているところが大きい。情にほだされそうになるから距離を置いている。それでも先日はOさんの方から年末のあいさつを寄越してくれたな。親切でいい人だ。
あと、サイトで「戦争学入門」を始めたのは良かったな。引退後の課題に着手したのはいいことだったように感じられている。
世の中はどうだろう。世間の動きと隔絶した生活をしているので、世の中のことはチンプンカンプンだ。そんな中で今年の一年で僕の印象に残った出来事を残しておこう。
7月に大災害が来るなどという予言があったな。ある漫画家さんが見た図だという。結局、その日に災害は何も起きなかった。災害なんて起きない方がいいので、予言が外れてくれて喜ぶべきところである。でも予言なんてそんなものだ。
2025年は世界戦争が勃発するとか、じつにさまざまな予言があった。正確に数えたことはないんだけれど、予言の類は実に膨大な量にあがると思う。さまざまな人が予言をしているようである。どれも的中することはない。的中するとしたら、ほとんど偶然レベルのものだと思う。偶然的中しただけなのに、予言が的中したとするのは、いわば論点のすり替えのようなものである。
あれはTOKIOと言うグループだったか、国分太一さんの報道は僕には少々怖かった。11月に記者会見があって、その模様を僕もたまたまテレビで見た。詳しくは分からないが国分さんが何かコンプライアンス違反を犯したというのだ。国分さんの発言をそのまま信用すると、どこが違反だったのか、どういう違反だったのかは一切国分さんには知らされていないそうである。だから「答え合わせ」をさせてほしいと願ったそうだが、それも却下されているそうだ。
僕は別に国分さんを弁護しようとかいう気持ちはない。ただ、この話からカフカ的悪夢の到来を僕は感じる。罰則が科せられているから罪がどこかにあるはずだが、当人には知らされず、どこまで追求しても自分の犯した罪が明らかにならず、刑罰だけは受けなければならないという、カフカの描く状況が現実味を増してきたようで、それが僕には怖い。
2025年は戦後80年に当たり、また阪神淡路大震災30年の年でもあった。追悼番組なんかも多かった。もっとも、僕は戦争が終わったとは思っていないし、日本は今でも戦争をやっている、もしくは戦争時の在り方を継承していると思っている。変わった部分ももちろんあるんだけれど、変わっていない部分もけっこうあると思っているわけだ。本当に変わらなければ、それは継承されていることになり、それを過去に位置付けることはできなくなる。
大阪万博は盛況だったようだ。盛況と言っても、僕はもっと経済効果があるものだと思っていたのだが。まあ、赤字にならなかっただけマシと言えようか。僕は万博反対派なので足を運ぶことはなかった。興味もなかった。それでも報道は嫌でも知覚されてしまう。あのヘンテコリンなキャラが「みゃくみゃく」っていうことまで、覚えるともなく、覚えてしまった。
1970年の万博を象徴しているのは「太陽の塔」だと思う。あれは芸術だ。「みゃくみゃく」はキャラにしか見えない。会場を取り巻く周遊歩道は、芸術というより、アトラクション的な要素を強く感じ取ってしまう。
スポーツはさらに興味がない。オータニの何がどうすごいのかサッパリ分からない。長嶋監督も亡くなったが、現役時代をリアルタイムで見ていた人にとっては大きなニュースだったろうと思う。僕は、つい「監督」と言ってしまうのだけど、せいぜい監督時代の長嶋さんしか思い浮かべることができない。あとはタレントというかレポーターの姿しか知らない。
故人を鞭打つようなことはしてはいけないが、そうかと言って、あまり神格化しすぎるのも僕は良くないと思っている。
アベ元首相の銃殺犯人の公判が始まっている。事件そのものも興味があるが、それでアベを神格化しすぎないようにメディアにもお願いしたいところである。
そのアベの忠実な複製のような人が首相になっている。タカイチさんである。初の女性首相ということで脚光を浴びたが、それはどうでもいい。いや、そういう言い方はいかんな。女性が首相になることに僕はまったく抵抗もないし、反対もしない。だから初の女性首相が誕生したということは、僕の中では大きなニュースにならないのだ。話は脱線するけど、それくらいでいいと僕は思う。もし、初の女性首相誕生ということで騒ぐとすれば、その背後には「女性は首相になれない」といった思想が生きていると僕は思うのだ。予想外のこと、想定外のこと、こういってよければ異常なことが起きているように感じられるから騒ぐことになるのではないだろうか。むしろ、女性が首相になっても当然と日ごろから思っていると、それが現実になった時には騒ぐことはなくなる。
首相が女性であることより、タカ派のタカイチさんが何をしでかすかが怖い。中国との関係にはヒビが入っているし、「働いて、働いて、働いて」と宣言したけれどあまり働いてほしくない人もある。この人が働くと良くないことが起きるといった感じの人もいるわけである。ほどほどに働いてほしいと思ってしまう人である。僕は個人的にはタカ派の人にはそういう働き方をしてほしいと願っているのだが。
自然環境は大きな問題だ。夏は酷暑を記録し、クマ被害は相次いでいる。米不足からコメ騒動もあった。物価は高騰し、賃金は上がらず、日本国民の貧富の格差は一団と広がったのではないかと思う。日本のGDPはドイツに追い抜かれて4位になったが、やがてはもっと下がるだろう。経済の動向は常にあるが、それは数字が変動しているに過ぎず、実生活場面での変動はあまり大きく見られない。数字が上がろうと下がろうと、僕たちの生活そのものには変化が見られないということである。日本はまだまだ貧困国を続けてくことだろう。
世の中のことはもういいや。僕の個人的なことも記録しておこう。
今年はセブンを辞めたのだった。1月だったな。ほぼ一年近くが経っているけど、あのセブンのことを思い出すことなんてなかったな。どんな人がいたか記憶も薄れている。
甥の死もショックだったな。今も真相を知りたいと僕は思っている。人が高所から飛び降りる時、死ぬつもりでそうするのでなければ、それはどんな時だろうか。僕は子供の時のある場面を思い出す。家の階段で飛び降り遊びを続けていたのだ。最初は一段目から飛び降りる。無事に着地する。それを続けていると、今度は2段目から飛び降りる。これを続けてどんどん高い所から飛ぶようになった。4段目か5段目くらいから飛んだ時に着地に失敗して、僕は大泣きした。母親がビックリしてそれこそ飛んできた記憶がある。
僕のこの経験は、より高い所からチャレンジするというよりも、どこまでの高さから飛んでも自分は安全だろうかという確認のニュアンスが印象として強く残っている。より上を目指すというより、無事に着地できた安心感の方を楽しんでいた感覚があるわけだ。
僕のその経験を踏まえると、高い所から飛び降りるのは、それでも自分が助かる人間であるかどうかを試す行為と見ることもできそうである。助けられて世の中を信じることができるか、誰からも助けられず放置されるだけなのか、命がけの賭けである。甥が可哀そうなのは、自分は助けてもらえる人間ではなかったことを証明してしまったところにある。それの証明をして命が尽きたことになる。無念な思いに苛まれる。
2025年はそんな年だった。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

