7月23日(水):僕の供養
今日、甥の葬式がある。父たちも気が重そうだ。僕はどうするかと訊かれたが、兄たちは自分たちだけで葬式を上げる意向を表していたので、僕は遠慮することにした。それに、今、兄と会ったら兄をぶん殴ってしまいそうだ。
僕は勤務でもないのにローソンへ行くことにした。Oさんの顔を拝みに行くことにした。ついでにOさんの手伝いもする。まあ、Oさんと会っていると気分が朗らかになってくる。甥の葬式に出なくて正解だったような気もする。甥のことは、四十九日が過ぎて、墓に入ったら、墓参りはしてやろうと思う。
ついでにこれも書いておこう。今回の甥の葬式の費用は両親が貸すことになったそうだ。兄たち夫婦にはそれだけお金がないということなんだけれど、甥はそういう親の痛いところを突いたことになる。なんとも見事な復讐ではなかろうか。自殺者は遺族に復讐するようなところがあるものだ。
しかし、兄たちはなんでそこまでお金に困るのか。兄も働いているし、奥さんも働いている。子の学費とかでお金がかかるのは確かだとしても、金のかかる趣味を持っているわけでもなく、贅沢する子供でもなかったのに。
結局、兄の経済的窮乏はその負債に起因するように思う。フレンチの店を畳んで、恐らく負債は残っただろう。それが痛いのではないかと思う。事業に失敗したのなら結婚もしなかったら良かったのにと僕は思ってしまう。結婚する相手に負担をかけてしまうことになるからだ。
事業だけでなく、前の結婚の後始末の問題もあっただろう。兄は再婚しているのだが、初婚時のマンションや子の養育費などがあっただろう。いや、その他にも兄の就職事情がある。大学出てから大手のところに入社したのに、辞めてしまい、その後は小さな職場を転々としてきたようだ。その合間に開業があったわけだ。恐らく、職場を転々としているうちに収入も減少していったのだろう。
要するに、仕事でも、最初の結婚でも、そして開業に関しても、兄は失敗しているわけである。それから再婚して、甥が生まれて、今日に至っているわけだ。一見すると幸せそうだし、順調に行ってるように見えるけれど、それは見せかけの成功であったかもしれない。甥はその見せかけの衣を剥ぎ取ることになったのではないだろうか。これもまた強烈な復讐ではなかろうか。
しかし、上述の論法でいくと、僕の方も兄のことを言ってられない。いつか事務所を畳むとしても、負債をせめてプラスマイナスゼロくらいにまで持っていかないといけない。廃業してからも支払い続けるなんてものは無い方がいい。僕の場合、僕が負債を抱えているからって、それで困る人がいるわけではない。せいぜい、僕自身が困るくらいだ。それがせめてもの救いだ。道連れにしてしまう人がいない方がいい。だから、Oさんのことが好きであっても、Oさんを道連れにしてはいけないとも思う。そんな人間にだけはなってはいけない。兄のようなことはしてはいけないのだ。
甥の死はそんなことまで僕に決意させているのだ。甥の死には、僕にとっては、意味がある。その死に意味があるとすれば、甥の存在そのものにも意味があったことになる。こうして故人に意味・意義を付与し続ける限り、故人は生き続けることになる。それがせめてもの僕の供養である。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)