5月18日(月):ミステリバカにクスリなし~『内なる私』
グレアム・グリーンの処女作『内なる私』を読む。20代の頃に一度読んだきりの本だ。いつか読み直したい本のリストに入っていたのだけれど、このまま読み返すことなく過ぎてしまいそうだった。小さな心残りを残さないようにしたいので、今回、時間の合間を縫って読み通した。一部は記憶にあったが、そういう物語だったのかと再認識するところの方が多かった。昔に読んだ本はいつか読み返すに限る。
物語は主人公アンドルーズが逃げる場面から始まる。彼は追われているのだ。「追われる主人公」はグリーンの作品ではお馴染みである。なぜ主人公が逃走するのか、何があったのか、物語が進行する中で徐々にその全貌が見えてくる構成である。
アンドルーズが逃げているのは彼のかつての仲間たちからである。密輸団の一員だったアンドルーズは警察に密告して彼らを裏切ったのだ。以来、連中は彼を追っているのである。
では、彼はなぜ密輸団に入ったのか。それは父親の影響である。父親は家庭では横暴であり、母親を不幸にした張本人であるが、密輸団では親分であり、度胸もあり、部下からは尊敬されていた人物である。アンドルーズはカーリオンに誘われて密輸団に加わったのだが、父親を知る面々からは軽蔑されっぱなしであった。アンドルーズは父親ほど強くはなく、臆病者だったからである。
丘を超え、彼は一軒の家にたどり着く。そこには若い女エリザベスが独りで住んでいた。彼女の養父は亡くなったばかりで、葬儀も終えてなかった。
彼は彼女の家に身を隠し、彼女も彼を匿う。
アンドルーズはエリザベスを恋い慕うようになる。彼女はルイスの町に行って公開裁判に出て証言すべきだとアンドルーズを説得する。
ここまでが作品の第1部である。ルイスの町での出来事が第2部を構成している。
彼は彼女のために公開裁判に出ることを決意するが、臆病であるが故に何度も葛藤する。ルイスの町のバーで裁判のために来ていた検事たちと出会う。ここで娼婦まがいの女ルーシーと出会う。
翌日、裁判に出頭するアンドルーズ。この裁判で事件が明らかにされる。アンドルーズの密告によって待ち伏せしていた警官たちと密輸団とが銃撃戦を交わし、税関が一人殺されたのだ。この殺人事件の裁判だったのだ。
彼はかつての密輸団の仲間たちと顔を合わせる。連中は彼を恨む。それどころか、たとえ密輸団であれ、仲間を裏切る行為に対して警官も彼を軽蔑する。ここでも彼は孤立無援であり、孤独である。
裁判が始まる。関係者が証言台に上がる。アンブローズも証言に立つ。この裁判シーンは一つのクライマックスであり、最初は被告である密輸団が不利で、アンブローズに有利あった。ところが、被告側の弁護人が虚偽のアリバイを各人にもたせており、徐々に密輸団が有利になっていく。そして、被告がまさかの無罪放免となったのだ。
ここでアンドルーズの恐怖は頂点に達する。無罪放免となった連中は必ず彼を殺しにやってくるはずだからである。
裁判で不利な証言をしなかったことで密輸団のコックニー・ハリーが、その恩返しということでタレコミ情報をアンドルーズにもたらす。連中はアンドルーズに復讐するために、エリザベスの家で待ち伏せするという。彼女にも危険が迫っている。
愛する人に危険が迫っていると分かっていても、臆病ゆえになかなか決断できない主人公がもどかしく感じられるのだが、翌朝、彼はエリザベスのもとへ駆けつける。危険が迫っていることを知らせるためだ。
第3部は再びエリザベスの家が舞台となるのだけれど、その後どうなるかは伏せておこう。
さて、主人公アンブローズは内なる自己と闘争する。この内なる自己は父親であることを洞察するので、この作品は「父親殺し」が一つのテーマとなっていると言えるかと思う。
臆病で、逃げてばかりの主人公が踏みとどまって、状況に立ち向かっていこうとする姿は感動的である。グリーンの作品にはそういう場面がけっこうあるように思う。そこが僕の好きなところである。『密使』などにもこのテーマがある。追われる存在から追う存在へ、逃げることから立ち向かうことへ、そこには心の変化があるわけだが、状況の中にあって自己を生きようという実存的なニュアンスも僕には感じられる。
本書のもう一つの魅力は「孤独」である。これもグリーン作品の多くで描かれているテーマだと思う。アンブローズは徹頭徹尾一人なのである。一人で逃げ、一人で裁判に臨み、一人でエリザベスを救おうと試みる。そこには仲間なんていないのだ。
一人であるがゆえに、彼は自分を当てにしていかなければならない。しかし、彼は自分を当てにするほど強くない。彼は臆病であるが、彼がそう信じているだけに過ぎないかもしれない。エリザベスのために勇気を出すことさえあるのだから。そうして孤独な人間が苦難に満ちた現実に立ち向かう姿に僕は共鳴する。
エリザベスもまた孤独な存在である。養父が死に、一軒家に一人で暮らすことになった。あまり幸福そうなエピソードもなく、どちらかと言えば薄幸の女性という印象を受ける。アンブローズが彼女の家に転がり込んだがために、彼女は密輸団と彼との抗争に巻き込まれる形になる。彼女は彼女なりに、この状況に対峙し、決着をつける。静かな余韻を残す場面がとっても印象的であった。
事件というか、アンブローズのトラブルはケリがつくのだが、悲観的な色彩が濃い。孤独な二人が出会って、ともに状況に立ち向かっていき、それは功を奏したにも関わらず、彼らは孤独の中で生きることになる。どこまでも孤独から逃れることができないという悲観的な後味が僕には感じられる。でも、そこが本作の魅力でもあるように感じている。
本作はグレアム・グリーンの処女作である。どこか初々しさが感じられるところもある。いささか感傷的な雰囲気が濃厚だけれど、物語はよく組み立てられているように思う。ストーリーは十分に面白いと思う。後の作品に比べたら、完成度が劣るとか、稚拙なところが目立つかもしれないけれど、本作は本作で十分に面白い一冊だ。それに、処女作でありながら、すでにグレアム・グリーンの作風や世界観、テーマ、思想などが、しっかり樹立されてるところも魅力である。
本書における僕の唯我独断的評価は4つ星だ。名作や傑作とまではいかないにしても、読んで十分に面白い。
<テキスト>
『内なる私』(The Man Within)グレアム・グリーン
早川書房
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

