12月16日(火):生を喜ぶ
今日は終日イライラしっぱなしだった。イライラする要素は何もないのにイライラする。内面が騒がしい。
いや、イライラの要素はいくつもある。小さいのがたくさんありすぎて、「これ」と特定できないだけのようだ。
バイトしているローソンの方もいい加減にしてほしいところである。コンビニが悪いわけではないし、ローソンが悪いわけでもないんだけれど、あの店はどうも良くない。人を酷使しすぎる。
昨晩は30分早めに勤務した。当然、この30分は無給である。8時間のシフトで休憩が1時間あるのだけれど、そのうち40分は仕事をした。この40分も無給である。シフトに入っただけで1時間の無償奉仕が決定しているのである。
無料(ただ)働きほどバカなものはない。そりゃ、10分や15分くらいのものであれば構わないのだけれど、1時間とかそれ以上とかになるとやってられなくなる。いや、それもたまにとかだったらまだ許せる。それが毎回のようになると、ホント、何やってるのやらという感じだ。
そこまでしてやって、さらに仕事を増やされるとなったらたまったもんじゃない。みんな辞めていくわけだ。
おまけに昨夜は体調がよくなかった。足も痛かった。両ひざが痛く、動作に支障をきたしていた。両ひざを庇いながら動くので疲労感もハンパじゃなかった。勤務後も、これを書いている深夜まで、傷みがましにならない。ずっと傷みが持続している。
勤務後は高槻に出る予定だったが変更した。一度帰宅し、休んでから行くことにした。朝食を取り、それから寝てしまった。居間で雑魚寝してしまった。先日同様、寝たという記憶がない。いつ横になったのかも覚えていない。食事を終えて、居間で座ったあたりのところまでしか覚えておらず、その後のことは記憶が欠落している。
自分のことで覚えていないことがあるというのは、とかく厄介だと改めて思う。自分の中で連続性が途絶えるということは、思っている以上に心的負荷が大きいと実感する。
昼ごろ目覚めた。それから高槻に向かう。気持ちは相変わらず落ち着かない。職場入りしてからも気持ちは穏やかではない。勉強するも頭に入らない。サイト作業は、一応予定していたことはこなしたが、かろうじてこなせたといった感じである。
疲労感が大きい。四六時中睡魔に襲われている。それでも無理にでも覚醒して、やるだけのことはやろうなどと思っている。我ながら矛盾しているようにも思うが、寝ようとすると寝られないことが分かっているので、極限まで起きてから寝落ちしようと計画している。
死の観念にもとりつかれている。この観念自体は若いころからあった。自分は長生きできないという気持ちに襲われている。若いころとの違いは、死がより近く実感されていることである。
実際、近いうちに死ぬということはないとしても、あと何年も生きられないんじゃないかとも思う。60歳まで生きられない気がしている。若いころから体を酷使しているし、酒もたばこもやるし、体のいたる所が悪くなっているだろうと思う。この年齢で平気で無理を重ねている。一日4時間以上は寝れず、ひどい時には30時間くらい起きて活動している。食事は取ったり取らなかったりだし、きっと栄養も偏っているだろう。こんな生活を続けていたら早死にしそうな気がするのももっともであるが、この生活を止めることもできないでいる。
余生が残り少ないと思うと、ますます寝ている時間がもったいなく思えてくる。生きている間にやりたいこと、やろうと思っていたことは一つでも多くやっておきたい。
僕は「死の衝動」理論を信奉している。フロイトの理論の中でもっとも物議を醸しだした理論だ。弟子たちの中にも賛同しない人が多い。でも、僕は人間には死に向かう衝動があると信じているのだ。
死の観念に囚われている時、僕は死の衝動が強まっているとみなす。死の衝動より生の衝動の方が上回っているから、生存できているのであって、これが逆転した暁にはきっと自殺してしまうだろう。生きるためには死の衝動はしっかり抑制・抑圧されていなければならない。その抑制・抑圧の力が今は弱まっているのだろうか。
できるだけ長生きはしたいとも思っている。少なくとも70歳までは生きたいし、あと10年は生きたい。ともかく、今日も無事に生きた。いや、生き延びたと言った方が適格だろうか。生あることを喜ばなくては。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

