1月27日:「作業準備とケプト派の夢」 

1月27日(火):「作業準備ケプト派の夢」 

 

 足の具合が悪い。歩行に支障がある。そのため歩くと非常に疲れる。具合の悪い所をカバーして、普段とは違った歩き方をしてしまうためだろうか。 

 足だけでなく、体調も芳しくない。熱は無いものの、風邪を引いた時のような倦怠感がある。 

 そんな調子で昨晩の夜勤をこなしたので、もうヘトヘトだった。だから今日は寝て過ごした。体調にも足にも、その方が良さそうだった。 

 

 寝ている間に夢を見た。こんな夢だ。 

 

(夢)作業準備ケプト派の夢 

 どういうわけか僕は仕事を頼まれた。おそらくそれまでの流れがあったはずだが覚えていない。その仕事は道路沿いの土地に関するものだった。4か所で作業をすることになった。それぞれの場所で作業内容がことなる。ある場所では通路の整備だったり、別の場所では柵を作ることだったりした。 

 それから僕は道を歩いていた。向かい側から青いスポーツカーが猛スピードで突っ込んできた。僕は電信柱にしがみついた。運転手はその僕の姿を見て嘲笑しているようだった。突っ込んできたのは悪戯だと分かった。 

 僕は作業に必要な道具を運んだ。一本、大きな鉄の棒があり、僕はそれを片手に持って歩いている。先ほどの青いスポーツカーがまた突っ込んできそうだったが、僕が鉄棒を手にしているのを見て、急に道路を左に折れた。この鉄棒を凶器だと思ったのだろう。 

 先ほどの土地に着く。小屋がある。中に両親がいた。母が座って本を読んでいる。母が本を読むなんて珍しいなと思った。何を読んでいるのか尋ねると、母はブックカバーを外して、本を見せてくれた。それは銀色の表紙の本で、「ケプト派」というタイトルだった。 

 そこに講師らしい男性がいて、僕にケプト派が分かるかと訊いてきた。僕は認識と思考に関する哲学だったと思うと答えると、彼は少し違うと言っただけだった。 

 どういうわけか僕は興味を覚えて、ケプト派について調べた。それは思考の法則で、Aの状況でBが生じた時、思考Cはどのようなものが適切であるか、といった思想だった。 

さまざまな状況と出来事の問題文が羅列してあった。 

 

 以上が僕の見た夢だ。その前後のものもあった気がするのだけれど、覚えているのは上記の部分だけだ。 

 空き地での仕事だった。内容はあまり覚えていないが、4か所というのは確かだ。現実の僕は高槻の職場と自宅とバイト先のお店と、この3か所で働いていることになる。もう一つ増やそうかと考えている。夢ではその状況になっているようだ。つまり4か所働くことになっている。 

 夢では、4か所の土地で何かをするというのではなく、それぞれの土地で何かをするための準備工作をするといったニュアンスだった。4か所すべてにおいて準備をしなければならないことがあるかのようだ。 

 ありがたいことに、夢では道具はすべて揃っていた。あとは現地に道具や資材を運んで作業するだけだった。このことから、たとえ作業場が4か所であろうと、必要なものはすべて揃っているという安心感が生まれる。 

 車が突っ込んできたというのは、2週間ほど前の体験を思い出す。ただし、夢の中では僕は車に衝突しない。むしろ、車の方が寸止めした。それは悪意ある運転手が僕の肝試しをやってるかのようであった。車が突っ込んでくることよりも、そうした悪意に晒される恐れが僕の中にあると言えばある。 

 夢は一つの解決を示しているようだ。僕はたまたま鉄棒を手にしていた。それを見た運転手の方が、僕が凶器を手にしていると勘違いして、危険を察したのか、僕を避けた。悪意に晒されないためには、僕が「武器」を手にしていると思わせなければならない、ということではなかろうか。自分中で常に切り札を持っていた方がよさそうだ。 

 夢に両親が出てくるのは久しぶりだ。母が読んでいた本は、放送大学のテキストを連想させるものだが、表紙が銀色だった。ジャズのCDで「ブルーバードレーベルの遺産」というシリーズが90年初頭に販売されていたけれど、ああいう感じの色合いだった。ここはさらに過去90年代ころ)の連想とつながっている感じがする 

 読んでいた本が哲学書で、講師らしき人物がその場にいたわけだ。「ケプト派」なんて知らない。そんな派が実際にあるのかどうか。いろいろ考えていたのだけれど、「ケプト」という言葉からも何の連想も出てこない。 

 ケプト派が何かは不明だが、その教えるところのものは思考の適正化ということであるようだ。状況と出来事に応じて、思考を柔軟に適正化していくことであるようだ。つまり、4か所の仕事場のそれぞれにおいて適正な思考をすることが僕に求められるようだ。 

 夢では母がそれを勉強していたのに、いつしか僕自身がそれを勉強することになっている。母のやってきたことを、継承するなり、僕自身の身に着けていくことが助けとなるのかもしれない。 

 夢の中の講師は、僕に問いを発し知識を授与してくれる存在であるので老賢者」に該当するだろうか。この賢者は、まだ若くしかも僕よりも母の方を教えているつまり、母と結びついているそれが良くないことだとも思わないのだけれど、この老賢者はまだまだ僕の導き手とはなり得なさそうである。 

 

 夢というものは、自分の見たものであっても、なかなか分からないものだ。しばらくこの夢のことも考えてみようと思う。 

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

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