<T026-46>動画広告完成記念コラム(11) 

 

(問10)「その話はこの問題とは関係がありません」 

 

 人間は全体的な存在であるので、その人の諸傾向、諸特性は相互に関係し合うものである。 

 例えば、僕はお酒を飲むのが好きである。頭は悪いくせに本を読むのが好きである。文章は稚拙なくせに、やたらと何かを書きたがる。書くだけでなく、なんでもかんでも記録に残したがる。これらはすべてある一つの特徴を示しているものである。僕の幼児性であり、幼児的な完全主義である。 

 自己中心的な母親に振り回されてきたという女性クライアントがいた。「お母さんはきっと方向音痴でしょうね」と僕はさりげなく言ってみた。彼女は驚いて言った。「なんでそれが分かったんですか」と。ある人が自己中心的であることと、その人が方向音痴であることとは根底では一つであるからである。 

 一見すると、それとこれとは別の話に見えるのだけれど、認識の次元を拡大ないしは上げると、そこにつながりを見いだすことは困難ではない。認識を上げるということは確かに難しいのだけれど、それができてしまうと、関連を見いだすこともさほど難しくなくなるのである。 

 認識の次元の話はここでは控えよう。やがて第2章辺りで展開することになるので、そちらを参照願えたらと思う。 

 

 「治らない人」の一つの特徴は、「問題中心主義」である。あくまでも「問題」とか「病」を中心にすべてを考えてしまうところにある。その傾向が「治療」の場にも持ち込まれる。そうすると、「問題」とか「病」とかに関係がない(と当人がみなしている)ものは、一切、切り捨てられてしまうことになる。 

 しかし、それが「関係がない」というのは、あくまでも当人の判断である。冒頭で述べたように、僕は人間は全体的な存在であると考えているので、本当にそれが「関係がない」のかどうか疑問に感じるのである。 

 

 さて、「それは関係がないから話す必要はない」といった思考が拙いところを3点ほど挙げておこう。もちろん、これは僕の個人的な見解である。 

 一つは、これは何らかの「抵抗」である。この人はある事柄について、「関係がない」といって、話すことを拒否しているのである。もし、そうであれば、「関係がない」というその事柄はますますそれに関係が深いように思われてくるのである。 

 次に、これが自己制限的であるから拙いのである。自分自身にある種の制限を加えているのである。私がここで取りあげるのはここからここまでのことです、それ以外の部分は取り上げませんといったふうに、自分自身に制限を加えているのである。 

 この自己制限的という傾向は「治らない人」にはよく見られるものである。だからといって自己無制限的なのがいいというわけではない。自己を制限するとは、無力や断念に見られる。「そんなのやっても無駄だ」とか、「これ以上はムリだ」とか、どこかで自分に関する事柄に制限ラインを引くのである。問題は、その制限が現実的でないことである。その人が目指せるよりもはるかに手前のところで「これくらいでええわ」と制限したりするのである。 

 この自己制限は、時に、自己抑止的になる。途中で制限するのではなく、最初から制止するのである。やってみて、「これくらいでええわ」となるのではなく、始める前から「ムリ」と言って一歩も踏み出さないという傾向につながるように僕は感じている 

 三つ目として、これが自己の断片化に発している場合もあるようだ。つまり、あれとこれとは関係がないと言う時、それが「あれを経験した自分」と「これを経験した自分」とは別人だといったニュアンスを含んでいることがある。これは自己を断片化させている、分裂させていると考えることができるということである。もしくは、自己を狭窄させていて、自己の限られた領域内のものだけが自己であると体験されていたりするのだと思う。 

 もし、僕が「関係がないかもしれないけど、関係があるとすればどうでしょうか」と問いかけてみると、自己制限的な場合では苦しい感情に襲われ、自己断片的な場合では困惑することが多いように、僕は個人的にだけど、そう感じている。 

 

 少し視点を変えよう。 

 次のような経験をしたことはないだろうか。例えば数学(でも何でもいいのだけど)で解けない問題があるとする。いくら考えても、この問題をどう解いていいか分からない。いくら考えても分からないから、一旦、そこで終了する。そして、次に英語(でも何でもいいのだけど)の勉強に取り掛かる。英語の勉強をしている時に、ふと、先ほどの数学の問題でまだ試していない公式があることに気づいたり、あるいは、こうすれば解けるのではないかといった直観がよぎったりする。こういう経験をしたことはないだろうか。 

 これはつまり、問題の真っただ中にあるうちは見えなかったものが、問題の外に出て初めて見えるといった経験である。人間はこういう経験をするものだと思う。いちいち例は挙げないけど、学問の研究とか新商品・発明品の開発とかでもそういう例が多いように思う。何か別のことをしている時に、ふと、重要なことを思いついたり、閃いたりするのである。 

 カウンセリングでも同種のことが起きるのを僕は目にする。クライアントがカウンセリングを受けることになった「問題」以外の話をしている時に、その「問題」に関する重要な気づきを得たりするのである。 

 ある男性は妻との関係が悪化していることを気に病んでいた。自分の何が悪いのか、彼はそれを探求しようとしていたけど、彼は自分ではそれが分からないと言う。ある時、僕たちは面接を終えて、少しの時間雑談した。彼は昔の旅行の話、修学旅行とか社内旅行なんかの話をしている。その時、ふと、彼は「そうか、分かりました。先生、分かりましたよ」と言う。僕は「そうか、分かったんですか、分かったんですね」と応じる。ちなみに、僕には彼が何をどう分かったのかサッパリ分かっていないのである。しかし、彼の中では何か重要なつながりをそこに見いだしたのである。 

 「問題」とは関係がない話の時に、「問題」に関する何かを発見する。なぜ、そういうことが起きるのか、僕には確かなことは分からない。ただ。無関係の話をしている時、彼は「問題」から自由になっており、距離を置くことができているからだろうと推測するだけである。「問題」を話す時にしていた構えがなくなっているから、何かが新たに見えたのだろうと思う。 

 おそらく両方が揃っていないといけないのだろう。問題に面と向かって取り組む時と、問題から距離を置いて別活動している時の両方である。 

 もっとも、必ずそれが起きるとは断言できない。関係のない話は、関係のない話で終わってしまうこともあるだろう。僕からすると、そういう無関係な話からの方がクライアントに関する情報がよく入手できるのだけど、クライアント自身はそこから何かを発見することなく終わることもあるだろう。 

 ただ、「治る人」は最初から「それは関係がない」などと切り離すことはない。関係がなくても話してみると、何か得るところのものが生まれるかもしれないのであるが、「治らない人」たちは最初からその可能性を締め出してしまっているのである。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

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