<T026-30>筆のすさび(16):幻聴幻覚論 

 

 今はHPでそういう人のことを取り上げていないためか、あまりお目にかかることもなくなったけれど、開業して初期の頃は幻聴や幻覚を訴えて来談された人が何人かおられた。幻聴というのは声が聞こえるというもので、特に説明は要さないだろう。幻覚というのは幅広い概念であるが僕が経験したのは主に幻視である。ただ、幻視にいたらず、何かがそこにいるといった感覚を訴える人もあったので、ここではそのような訴えも幻覚にまとめている。 

 

 かくいう僕自身、19歳ころには声に悩まされた時期があった。僕の場合は、僕がどこにいても僕の名前が呼ばれるという経験だった。名前を呼ばれたので辺りを見渡すと、そこには僕を知っている人はいないし、名前を呼んだと思われるような人も見当たらないのだ。 

 最初は「気のせいか」くらいで片付けることができていた。しかし、これが2度3度と続くとさすがに怖くなる。これが幻聴というものかと思った。そして幻聴はシュナイダーの一級症状にも入っている。僕は自分が分裂病だと確信した(注1)。 

 また、ある人から僕は将来分裂病になると予言されたこともある。それもあって僕は分裂病を勉強し始めた。 

 そうだ、やはりその時期だった。テレビのドキュメンタリー番組で分裂病者の社会復帰というのをやっていた。興味があって僕も観たのだけれど、その中でゾッとした場面がある。このかつての分裂病男性の住居が映ったのだ。つまり彼の生活している空間であり、部屋である。いろいろその他の事情もあるのだろう、そこには生活に必要な最低限のものしか置いてなかった。言葉では上手く言えないのだけれど、僕には何か殺風景な情景に見えた。人間らしさというか、その人らしさというか、そういうものがその空間からは感じられなかったのだ。その部屋は、人格性欠き、虚無が支配しているように僕には感じられたのだ。 

 余談だけれど、僕もあんなふうになってしまうのかという思いから、僕の部屋には僕の人格とか人間性が露わになるようなものを種々様々置いてある。仕事場もそうだ。僕の人格性を感じられるようにしたいという思いがあるのだ。あの分裂病者の部屋の情景からの反動でそうなってしまっている部分がある。 

 それはさておき、分裂病は僕にとって一つのテーマとなった。今でもそうだ。分裂病を調べるのに、今みたいにインターネットなんてなかった時代だから、書店に行って分裂病関連の本を買って読むことにした。よりによってクレペリンの『精神分裂病』をチョイスしてしまったものだから、たいへんなことになった。読んで絶望的な気分に襲われたものだった。 

 ちなみに、今は薬も改良されて、クレペリンが同書で記述したような患者さんは現代ではほとんど見られないそうだ。緊張病なんかはかなり稀になっているのではないかと僕も思う。 

 本節のテーマは分裂病ではないのだけれど、もう少しだけ書こう。分裂病に関して僕がとても参考になり、とても救われたと思える本がいくつかあるので、その紹介だけしておこう。 

 なによりもミンコフスキーの『精神分裂病』を挙げたい。これは今でも紐解きたくなる本だ。分裂病の原因現実との生きた接触の喪失求めた本書は、分裂病理論に「関係性」の視点持ち込んだものであると言える特に分裂病発症の防衛として現れる病的合理主義や病的幾何学主義などの概念は非常に参考になるし、生の合理的因子の肥大という考え方に僕は大いに賛同するものである。 

 ユングの『分裂病の心理』もよかった。分裂病者示すさまざまな言動はそのままでは意味不明であるが、象徴的な意味合いが見いだせることは、彼らが理解可能人たちであることを確信させる。 

 また、特に分裂病と断っているわけではないけれど、ベネデッティティの『臨床精神療法』も僕には救いだった。そこでは分裂病の治療論展開されているが、分裂病者が転移を形成し、解釈が通用する人たちであることの確信得られる。セシュエーよりもベネデッティティだった。 

 以後もいろいろ本を読んだ。サリヴァンは分裂病よりも治療論で学ぶところが多かったし、ビスワンガーの詳細を極めた症例研究も学ぶところが多かった。 

 

 僕の幻聴の話に戻ろう。僕にもそういう経験があるということだ。 

 あれは1994年頃だったと思う。資料を残してあるのだからそれを見れば正確な日付も分かるのだけれど、今それが手元にないので記憶に頼っているのだけれど、まあ94年か95年だったのは間違いない。 

 その頃、ヒアリングヴォイスというテーマで講演があった。そこでは幻聴に悩まされる人たちの話が展開された。目からうろこが落ちる思いがしたのが、彼らは幻聴と付き合うようになったということである。声と付き合うようになると、中にはその声がいいことを言うようになったといった例もあった。幻聴は消去しなくてもいいものなのだと、改めて僕は学んだ。 

 考えてみると、幻聴は分裂した自我領域から発せられるものであるから、その声と付き合うということは解離された自我領域に関わるということでもある。声を通して自我が統合されたのだと考えれば、声そのものが残っても構わないのかもしれない。 

 

 その後、例えばウイリアム・ジェームズの『宗教経験の諸相』などで、幻聴や幻覚から宗教に目覚める人たちもいることを知った。しかし、それにはその幻聴や幻覚と対決する姿勢が求められるようだ。 

 もし、それらの問題を抱えるクライアントが、そういう対決を欲しないとすれば、その人が精神病に陥らないようにすることが僕の務めになる、とそう思う。 

 幻聴や幻覚は、僕自身の経験に照らし合わしても、それ自体は直接的な危害を加えてくることはない。どれだけ不愉快な言葉を聞こうと、どれだけグロテスクなものを見てしまおうと、それ以上のことは幻聴や幻覚にはできない。さらに、現実感覚が損なわれていなければ、そうした声や物は自分だけに知覚されていることが分かっていることも多い。声は、自分だけに聞こえていて、他の人には聞こえていないということが分かっているわけである。そうであれば、幻聴や幻覚が他者を攻撃することがあり得ないことも理解できる。 

 クライアントたちが理解しなければならないのはその部分である。彼はそれを非常に恐れているけれど、直接自分に危害を加えてくることはないし、他者に対してもそうである。そこをしっかり押さえておかないといけないのだ。その対象(聞こえてくる声とか見える物体)は彼よりも弱い存在なのだ。彼はその対象よりも強いのだ。このことだけは何があっても押さえておかなければならないわけだ。 

 ただし、これを力説しても上手くいかないこともある。つまり、クライアントは僕が真剣に受け取っていないのだと感じるようである。彼からすれば自分はこんなに恐れいているのに、自分の方がそれより強いなどと言われても信用できないと思うわけだそう思うのはもっともである。自分の方がそれより強いなどとは決して思えないのである。自分でもそれをどうすることもできないのに、自分の方がそれより強いなどとは思えないのも当然である。当人にはそれだけ対象には強大な力が付与されていると感じられるのである。 

 それでも僕はそこを明証していく。「声」が聞こえたというそれぞれのエピソードにおいて、その「声」に一体何ができたというのか、それはただ聞こえてきただけであり、なんらの効力も発揮していないのである。それは自明である。「声」が何かをするように命じても、彼がそれを実行しなかったということであれば、「声」には彼を強制する力がないのである。彼はそれに屈してしまいそうになり、内的な闘争が行われていたかもしれないが、つまり苦しい体験をそこでしたかもしれないが、それでも彼はその「声」に負けなかったのである。 

 クライアントがどんなエピソードを語ろうと、クライアントが対象に屈服しなかったことを証明することは容易である。僕がお会いした人に関して言えば、彼らは誰一人として対象に打ち負かされてはいないのである。 

 

 もう一つ重要な点は、次の区別をつけることである。 

 幻聴や幻覚というものは、ある日いきなり生じることが多い。今まで体験したことのなかった体験をある日いきなり、自分の意思とは無関係に、体験してしまうのである。僕もそうだったけれど、これはかなり強烈な体験であり、恐ろしいと感じられるものである。 

 重要なことは、この最初の体験における恐怖感と、その後の対象がもたらす恐怖感との区別である。これも僕の体験に基づいて言うのだけれど、最初の恐怖感がなければ、声そのものはそれほど怖いと感じなかったかもしれないと、そんなふうにも思うのである。 

 つまり、幻聴や幻覚の対象が恐ろしいというよりも、その対象以前に経験した、何か異常なことを体験してしまったとか、自分の中で何かがおかしくなってしまったとか、そういう異常意識に対する恐怖感の方が大きいということである。その恐怖感が、その後の体験にも影を落としているわけである。ここをしっかり区別できれば、幻聴や幻覚そのものはそれほど主体を脅かさないであろうと僕は考えている 

 

 今だったら僕はどうするだろう。上に述べた基本的な方針は変わらないだろう。でも、病院に行って薬を服用した方が速いですよ、と言うかもしれない。 

 

注1 

 シュナイダー精神症状等級に分類して、一級症状なる概念を提唱したのだが、一級症状が一つでも見られたら分裂病と診断してよいとされた。幻聴は一級症状に入っている項目であるので、僕は即座に自分が分裂病になったと思い込んだわけだ。ちなみに、現代では、シュナイダーの一級症状は、分裂病よりも、解離性障害により当てはまるという見解もあり、それも僕は首肯できる。 

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

 

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