<T026-27>筆のすさび(13):自己憐憫(1)
自分を憐れんだりしてクヨクヨしているクライアントたち、つまり自己憐憫に陥っているようなクライアントたちに、「もっと自己憐憫しなさい」などと僕が言うと、たいそう驚かれることも多い。彼らは、例えば「クヨクヨするな」とか「自分を憐れむのは止めなさい」とか、そういうことをカウンセラーから言われるものと思い込んでいたのに、まさかその真逆のことを言われたから驚いたというわけだ。
ただし、僕がそのように伝える人もあれば、「自己憐憫を止めなさい」ということを伝える人もある。クライアントによって僕の言うことも変わるわけだ。また、自己憐憫をするなら正しいやり方でしなければならない。間違った自己憐憫が問題になる。さらに言うと、自己憐憫はそこから次のことに発展しなくてはならず、自己憐憫の段階で留まることもよろしくないのだ。
以上に関して、僕の思うところのものを綴っていこう。
ここでは「自己憐憫」を自分を哀れに思うこと、自分を可哀そうに思うこと、とこのように定義しておこう。もう少し丁寧な定義を立てた方がいいのかもしれないけど、今は定義に拘るよりも論を進めていくことにする。
「可哀そうに思う」というのは、それ自体は愛情ではないかもしれないけれど、しばしば愛の入り口になることがある。あるいは愛の端緒がすでにそこに含まれていると言えるかもしれない。相手を可哀そうに思うということは、すでに相手に対する何らかの愛が始まっていると僕は考える。
そのように考えれば、可哀そうに思うという憐憫の感情は、よりきちんとした愛へと発展した方がいいということになる。従って、自己憐憫は自分を愛するということにつなげていかなければならないということになる。だから憐憫だけで終わってはいけないということになる。
今の話に関して、少々寄り道をしよう。
例えば慈善事業をする人たちがいる。難民を支援する人たちもいる。彼らの皆が皆そうというわけではないにしても、やはりこういう人がいると僕は思う。最初は彼らが可愛そうに思ったから支援していたのだけれど、支援しているうちに彼らのことが好きになったという人である。好きだから援助をするのではなく、援助をするから好きになるのである。あるいは、援助していく過程において、愛の感情が憐憫の感情よりも大きくなり表面化してきたと言えるかもしれない。こういうことは人間にはけっこう生じることではないかと僕は思っている。
また、援助しすぎる人とその援助を甘受する人のことを「共依存」などという訳の分からん用語で片付ける人がいるが、僕は賛成しない。夫婦としよう。妻は夫が可愛そうに思えて夫にさまざまな援助をする。夫はただ受け取るだけで妻には見返りとなるものがない。それでも妻は援助をし、援助する行為に自分の存在価値を感じているというわけである。おそらくこれはこれで正しい見解を含んでいるとは思うのだが、それがこの妻にできる精一杯の愛情であると考えることはそれほど間違っているとは僕には思えないのである。この妻の愛情は、愛の入り口の段階にある憐憫の状態に留まったままなのだと解釈して何が悪いのだろう、と僕は思うのだ。こういう人間関係で「共依存」しか見えなくて、愛が見えない臨床家は死んじまえと僕は思っている。
さて、本題に戻ろう。
自己憐憫は正しいやり方で行わなければならない。次の三点は守って自己憐憫するのがよいと思う。
一つ目は自分一人ですること、人目に触れないように憐憫することである。
その人が自己憐憫している姿を周囲の人が見た場合、その自己憐憫行為は周囲に何らかのメッセージを伝えてしまう。そうなると、この自己憐憫は純粋にそれを目指しているのではなく、そのメッセージのためになされてしまうことになりかねない。
例えば、その自己憐憫によって、周囲の人が罪悪感を覚えてしまうとしよう。この人の自己憐憫は、以後、周囲に罪悪感を搔き立てるための行為に陥りかねないということである。この自己憐憫は愛に発展することを目指したいのであるが、こうなるとこの自己憐憫は憎悪や復讐を目指すことになってしまうのである。
二つ目は必ず自分を慰撫する言動を含めるということである。
これは要するに、自分を可愛そうに思うというだけでなく、自分を慰める活動をそこに含めなさいといことである。ある女性は、自己憐憫に陥った際に自分の手をギュッと握りしめるということをやった。本当は誰かに握って欲しいのだけれど、一人でしなければならないという僕の忠告を守って、彼女は自分で自分の手を握りしめ、自分を支援しているのである。それでいいと僕は思っている。
三つ目は必ず制限を設けて、憐憫の後は日常生活に戻りなさいということである。
自己憐憫は日常生活の中でなされなければならないのである。自己憐憫だけの生活になってはいけないのである。日常生活は日常生活として営んでいかなければならない。だから、自己憐憫できる時間と場所とを確保し、その後は再び日常の生活に戻らなければならないのである。ある女性クライアントは、寝る前に自己憐憫の時間を取って、そのまま就眠するということをやった。翌朝は普通に起床して、日常生活を送るのである。
自己憐憫に制限を設けなければならないのは、それをダラダラ続けていると、憐憫以外の感情が生じてくるからである。大抵の場合、否定的な感情がそこで生じてしまうのである。怨念とか嫉妬とか後悔とか否定的な様々な感情が呼び起こされてしまうのだ。そしてそれらの感情に内面が支配されてしまうことになったりするわけだ。そうなると、この自己憐憫の活動は愛にはとても発展する見込みがなくなるのである。
分量の関係で続きは次項に引き継ぐつもりでいるのだけれど、肝心な点は、憐憫が愛の入り口になりえるということである。愛することの入り口は憐憫の他にもいろいろなあるけれど、達成したいのは愛の方である。その入り口や取っ掛かりが憐憫であっても構わないと僕は思っている。自己憐憫の目指すところのものは、憐憫そのものではなくて、自分に対しての愛の方である。この観点を見失わないようにしてほしい。
では、自己憐憫からどのようにして、それが愛へと発展していくのだろうか、それを次項で展開していこうと思う
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

